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正義の側に立つ者の心理学(8) 

私が大学生であった1980年代前半に、ネットの世界があったなら、ネットの世界は発言する大学生、高校生であふれかえっていたことでしょう。1970年代でも同じ事が起こったと思います。

今見回すに、MLなどの討論形式の世界は、20代は数えるほど、30代、40代が中心になっているのでしょうか?50、60代の方もおられますね。ところがネットに接続する世代構成としては20代や30代前半が多いのでしょうか?

MLなどの世界で、比較的世代構成が若いたぐいのMLはというと、組織力の力なのでしょうか、左翼系のMLは20代が多く見受けられます。もちろん左翼系ですから(右翼系でも話は同じですが)、「正義の側に立つ者」の心理を惜しみなく発揮しています。これは宗教系MLなどでも同じ事なのですが、宗教の場合、極めて個人的なことを、科学論理ではない普遍の物に昇華するのが目的です。「正義の側に立つ者」というか、「神の側に立つ者」になりたい、或いは「神の側に立つ者」になっている者の討論の場所であり、討議の内容も、個人的な話であっていいわけです。

しかし、社会活動を行う左翼系、或いは右翼系MLに、宗教系のような形態が導入されてうまくいくはずはありません。個人の話ではなく、社会活動の話をするのが目的ですから、そこには普遍性も絶対性もないはずです。無謬の存在もなく、社会の流れに沿って、議論の流れも活動の流れも変わってくるのが本来の姿です。

ところが、そうはなっておりません。社会への鬱屈、不満が、アメリカの現政権、イラク問題、日本の現政権である小泉政権に向けられ、それらの意見の大半は、策を建てる、策を練る、策を実行するのではなく、今施行されつつある政策を批判することに向けられている。評論の類でしかない。実行することは唯一デモ行進のようです。

これは、もしかすると個人的なカタルシスを代償する行為なのかもしれません。本来は宗教に向かうべき悩みが、反戦運動なり、反米運動に向かう。左翼系組織としても、そういった人間でも支持者、義援者になるのですから、取り込まないといけない。しかし、事実は、社会の話ではなく、個人のカタルシスにしかすぎない。

過去、カタルシスが存在するとき、それは、社会的な競争にそのエネルギーが向ゥいましたが、運動会で順位すら付けない社会に陥り、競争は悪であり、平和が善でなってしまった。成功者は羨むべき存在、到達すべき目標ではなく、「収奪」などのを行う「絶対悪」の存在と規定されます。そして、自分が社会的弱者であるのは、個人的な理由ではなく、社会の構造的理由が原因だとなる。

そうすると、個人的なカタルシスであるにも関わらず、社会的な原因も包含すると誤解しているわけですから、宗教に向かわず、社会的な行為、それも「正義の側に立ちたい」側にエネルギーが向かってしまうのではないかと。

日本が競争社会であったのは過去のことのようです。現代の若者はは、少数のマニュアルを作るグループと、大多数のマニュアルに従うグループに2極分化しています。フリーターというように夢は見続けているようですが、大多数の夢が実現するような社会であるとは思えません。後者は、競争のとば口で端から諦めているような気がします。前世代である我々は、現世代を生み出したことに鬱々としているのかもしれません。これはまだ序の口なのでしょうか?

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