スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

思想・信教の自由の制限 

A級戦犯の靖国合祀の話、靖国神社のあり方、首相参拝に関して、誤解を受けるので、一言述べておきます。

東京裁判が規定した戦犯の妥当性、靖国神社への合祀の動きは、昭和20年代の日本の世論、政治家の考えでは致し方の無かった事と思います。

しかしながら、

昭和20年代の話と、現在の首相参拝の話は状況が違います。昭和20年代の事実の認識は認識として、

小泉首相による、それが個人的な参拝であろうと、公式参拝であろうと、首相という役職にある間は靖国神社にあえて詣でる事はないのではないかと思います。横須賀の自宅近所の杉山神社にでも詣でていればいいでしょう。首相でなくなったなら、いくらでも思う存分、毎日だろうと参拝して頂いて結構ですがね。

靖国神社に参拝し、戦死された英霊を拝み、2度と戦争をしない、という不戦の誓いをしたい、というのは小泉首相本人の強い意志(?)とは思いますが、靖国神社に対する認識が、首相本人の認識と、外国、特に、中国・台湾・韓国・北朝鮮の認識と違う以上、パフォーマンスとしての参拝は国益を損ねる、という理由で、控えた方が良いであろうと考えます。

もちろん、個人の信教の自由は保証されています。

英霊が祀られていて、そこにすまわれていると信じる、拝めば不戦が達成出来る、と信じるのは首相の自由です。

憲法第9条があれば、日本は戦争に巻き込まれない、不戦の誓いを守れる、という信仰と全く同じであります。

私自身は、伯父がフィリピンで戦死し、靖国神社に祀られておりますが、別に靖国神社に詣でる事で伯父の霊が安らかになるとか、戦争が2度と起こらないとかの信心は持っておりません。靖国神社に行く場合は、静かな環境を楽しむ時だけで、全く宗教心を靖国神社に持っておりません。歴史のない神社ですからね。

さて、「世に倦む日々」というブログで、国内の靖国反対論を隠蔽する報道操作と梅原猛の国家神道批判という記事を見つけました。

靖国神社が問題なのは、それが戦前の日本を侵略戦争に導いた軍国主義の精神的支柱であったからである。靖国神社は戦死者を追悼する場所ではない。天皇の戦争に出征し戦死した戦没兵士を顕彰する祭儀施設である。戦死者を追悼する場所と言うなら、それは千鳥が淵の全国戦没者墓苑のことを指す。

前半の記述はもっともだと考えます。ただ、出征した兵士の大部分が戦死したら靖国神社に祀られて平安に英霊として成仏出来る、という信仰を持っていた、などということはないでしょう。どの程度「軍国主義の精神的支柱」であったのか、私は知りません。どなたか事実関係を知っておられるか、関連した記事を教えていただければありがたいのですが。

ここは、前半の「軍国主義の精神的支柱」であったを正しいと仮定して、

後半の記述を見ると、どうも戦前と結びつけ過ぎて、何か靖国神社が過去そうであったから、穢れていて、戦後もその穢れは払拭出来ない、そいった施設に参拝するのはよろしくない、という書き方に見えます。

しかしながら、

「軍国主義の精神的支柱」であったのは、主たるものが靖国神社であったにせよ、歴史が古い、新しいに関わらず、戦時中は日本のほとんどの神社・仏閣で先勝祈願が行われていましたので、穢れていてといえば、日本の神社・仏閣は靖国神社と共に穢れていると言えますね?

私は、そういった穢れていてというものが単なる建築物にあるわけもない、と思っているので、戦前の靖国神社と、戦後のそれを同一視する見方は致しません。

ただ、

私とは逆の見方をする方を非難したり、正しくない、と言ったりも致しません。これこそ、個人の思想・信教の自由ですのでね。

「小泉首相が、そこへ行って『不戦の誓いや戦没者への哀悼の念を示すためのもの』と言っても口先のものとしか受け取れない。」と言われる方もおられると思います。

個人個人の思想・信教の自由はありますので、小泉首相が「不戦の誓いや戦没者への哀悼の念を示すためのもの」と言っているので、あえてそれを口先だけとか、推測する事は私は致しますまい。

しかしながら、

公的な立場がある人が行動する事ですので、多生は行動の自由は縛られる、思想・信教の自由の上に、公的な立場を背負った行動の規範が求められる、と言う事はあるのではないか?と考えます。

ということは、

公的な立場にある方の行動は、個人の思想・信教の自由を超えて制限される場合もあるというのを首相に適用しよう、という考えですね?

ところが同時に、

公的な立場にある学校教師に関しては、国旗掲揚・国歌斉唱は、個人の思想・信教の自由を踏まえて、公的な場ではやめるべきだ、という主張をする方もおられます。

それはいささかの矛盾もない考えなのでしょうか?

昭和の頃は、国旗掲揚・国歌斉唱に関してあまり強く言われていなかったように思います。強く言われていなかった代わりに、あまり気にせず、国旗掲揚・国歌斉唱をしていた学校も多かったでしょう。

国旗掲揚・国歌斉唱で軍国主義者が増えるというのであれば、昭和の頃に義務教育を受けた学童にはその傾向が強い、となりますが、果たしてどうでしたかね?ノンポリ(ふ、古い!)が多くなっただけではありませんかね?

私は、たかが旗、たかが歌、と思ってますし、学校などの公式行事に、旗・歌が必要とも思います。行事進行に格付けされますから。だから、別に、国旗掲揚・国歌斉唱してもなんら私の信条に影響を与えません。

首相に思想・信教の自由を、少なくとも首相の間は制限しろ、と主張するわけですから、国旗掲揚・国歌斉唱に対しても公的立場にある教師は、個人の思想・信教の自由は制限して考えて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://franklloyd.blog68.fc2.com/tb.php/266-b0a1f7c6

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。