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ラッセル・アインシュタイン宣言と憲法9条(14) 

1928年コミンテルン第5回大会決議と共に、1928年の後の世界、つまり、日中戦争当時を思い起こしてみましょう。ゾルゲ事件(リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 - 1944年11月7日)は第二次世界大戦中のドイツのジャーナリストと言う肩書きを持つソビエトのスパイであり、戦前の日本を舞台に行ったスパイ事件「ゾルゲ事件」を起こす)という戦前の大事件がありました。

その ソ連のスパイのゾルゲと共に、日本人も処刑されました。尾崎秀実です。彼は、日中戦争当時の日本の首相近衛文麿の政治ブレーンでもあり、ある意味、尾崎秀実の考えが日本の政策に影響を及ぼしていたとも言えます。

尾崎秀実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾崎秀実(おざきほつみ、1901年4月29日 - 1944年11月7日)は満鉄嘱託職員で近衛文麿政権のブレーン。東京府(現・東京都)出身。

東京帝国大学(現東京大学)卒業後朝日新聞社の記者として活躍、その後満鉄調査部嘱託職員として活動していた。中国問題の評論家として、『朝日新聞』、『中央公論』、『改造』に論陣を張った。1937年(昭和12年)『中央公論』9月号で『南京政府論』を発表し、蒋介石の国民政府に正統性のないことを主張。それは、翌1938年(昭和13年)1月16日の「爾後国民政府ヲ対手トセズ」の近衛声明を前もって正当化した。1938年『改造』5月号で『長期抗戦の行方』を発表し、また、1938年『中央公論』6月号で『長期戦下の諸問題』を発表し、早期講和に反対し長期戦を正当化した。1941年10月15日にゾルゲ事件に連座して逮捕された。訊問には積極的に答えたので、28回分の検事・司法警察官訊問調書、また、28回分の予審判事訊問調書などの、膨大な量の資料を遺した。1944年、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保安法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された

尾崎秀実。当時のソ連のスパイであると共に、日中戦争の際の首相である日中戦争当時の日本の首相近衛文麿の政治ブレーンで、日中戦争、ひいては第2次世界大戦まで日本の政治を方向付けた宰相に入れ知恵をしていた人間がこの尾崎秀実なのです。

近衛文麿
近衛 文麿(このえ ふみまろ、近衞 文麿。1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は昭和時代の日本の政治家、第34、38、39代内閣総理大臣。東京都出身。五摂家の血筋を持つ公爵近衛篤麿の長男であり、第79代総理大臣であった細川護熙の母方の祖父に当たる。

1937年(昭和12年)6月4日に元老西園寺の推薦のもと、各界の期待を背に第一次近衛内閣を組織した。その直後に治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕者を大赦しようとして周囲を驚愕させた。7月7日に盧溝橋事件が勃発。7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにも拘らず、内地3個師団を派兵する『北支派兵声明』を発表。しかし、その後の国会では『事件不拡大』を言い続けた。7月17日には、1千万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにも拘らず、9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加。8月2日には増税案を発表。8月9日に上海で、2人の日本人将兵が殺害され、それに応じて、8月13日には、2個師団追加派遣を閣議決定。8月15日には、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、『今や断乎たる措置をとる』の声明を発表。8月17日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。9月2日には『北支事変』という公式呼称を『支那事変』と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、支那事変が日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚。12月13日に南京攻略。翌1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針が決定され、ドイツの仲介による早期講和を求める方針だった。しかし、1月14日に和平交渉の打切りを閣議決定し、1月16日に「爾後国民政府ヲ対手トセズ」の声明を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。さらに、汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らのトラウトマン和平工作を完全に阻止した。5月5日に、支那事変のためとして、国家総動員法、電力国家管理法を成立させ、計画経済体制を導入し、日本の社会主義化が開始された。なお、国家総動員法、電力国家管理法は、スターリンの第一次五カ年計画の模倣と言われている。8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大日本党の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へとつながる独裁政党への第一歩である。11月3日に『東亜新秩序』声明を発表。1939年(昭和14年)1月5日総辞職。

尾崎秀実は、支那事変勃発から1941年(!)に逮捕されるまで、近衛文麿の最高政治幕僚として近衛に助言していました。そして、支那問題の権威として多数の戦時論文を発表し、大衆世論を煽動し、我が国の国策を近衛文麿を通じて操り、「東亜新秩序」「東亜協同体」の実現を目指してきました。尾崎秀実は、彼が逮捕される直前に執筆した

「改造昭和16年11月号大戦を最後まで戦い抜くために」

の中で、

「東亜新秩序」構想と第二次世界大戦について
私は第二次世界戦争は必ずや、第一次世界大戦に続いて再び帝国主義諸国間の世界分割に終ることなくして、世界変革―世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。今次の世界戦は資本主義社会の総決算たるべき運命を背負ったものであろうと確信致して居るのであります。

その理由として

1.世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊させる。帝国主義陣営は型通り、正統派帝国主義国家群とファッショ派帝国主義国家群とに分裂しているが、此の場合戦争の結果は両者共倒れとなるか、又は一方が他方を制圧するかであり、敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝残った場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依って社会革命勃発の可能性がある。

2.共産主義国家たる強大なソ連邦の存在。

3.植民地、半植民地がこの戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於ては共産主義的方向に進む。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られる。

また、1941年に逮捕されてから巣鴨プリズン内で獄中手記を書いています。

尾崎秀実の(巣鴨プリズンでの)獄中手記
戦争は飽くまで世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるのでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば軈て全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります。(註:日独の勢力圏が英米の支配下に入り資本主義化するから

(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対条件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張と殆ど矛盾することなく主張される点であります。ところで、現実の戦争の進出過程に照らして以上の如き私の見解と予想は如何に喰い違って来たかと云う点について若干反省を加えて見たいと思います。先ず第一に私の予想の違った点は、昨年六月の独ソ開戦であります。私達はソ連があくまで帝国主義諸国の混戦に超然として実力を保存すべきものであると考えていました。

日中戦争は、日本の軍部の独断で開始されたのです。ソ連の陰謀だ?!だなどとは私は言いません。断言致しませんが、そのような文脈で、この尾崎秀実の手記を読んでみると、あながち間違いだとも言えなくなります。

参考:
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その1
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その2
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その3
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その4
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その5
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その6
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その7
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その8
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その9
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その10
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その11
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その12
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その13
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その14
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その15
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その16
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その17
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その18
佐藤守コーナー「大東亜戦争の真実を求めて」その19

陰謀の海・真珠湾
モーゲンソーを支えていた財務次官は、ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)である。ルーズベルトの周辺には、かなりの数のソ連スパイが暗躍しいていた。ホワイトはそのスパイ・グループの一人であったのである。ソ連はドイツの猛攻を浴び苦戦を強いられていた。もし、極東において日本軍の攻撃を受ければ、腹背に敵を迎え二正面作戦を強いられ苦しい事態におかれることになる。ソ連の課題は、日本から侵攻されることを未然に防止することであった。「ゾルゲ事件」も、対ソ連侵攻の「北進説」から、南方進出の「南進説」へと日本の国策転換に一定の役割を果たしたと考えられている。こうしたソ連の事情から、ホワイトの役割は日本を挑発し日米戦争を仕掛けることにあったようである。
ルーズベルトの政敵で共和党のリーダーであったハミルトン・フィッシェの調査によれば、東郷外相が、最後通牒と判断してしまった「ハル・ノート(Outline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)」は、ハル国務長官の意図とはかなり異なったものであるという。「ハル・ノート」の起草者こそホワイトであった。ハル(Cordell Hull)国務長官が、「ハル・ノート」を野村大使に手渡した後、スチムソン陸軍長官とノックス海軍長官に、「私の仕事はこれで終わった。これからは、あなた方の出番である」とのべたことは広く知られた事実である。
真珠湾攻撃の原因となった「ハル・ノート」を作成した当時の米財務次官ハリー・ホワイトはソ連のスパイだった。ソ連指導部は日本の軍事的脅威を除くため、米国を早急に対日参戦に促す「スノウ作戦」をすすめていた。

キーワード:
ロークリン・カリー
ハリー・デクスター・ホワイト
アルジャー・ヒス

大東亜戦争の遠因
大きな犠牲を払って中国における利権を守ろうとしたアメリカは、戦争が終わるとすべての利権を失ったのです。ソ連との冷戦が始まりました。アメリカでは共産主義者の追放が始まりました。マッカーシー旋風と言われます。

驚くべき事にルーズベルト政権の中枢に共産党のスパイがおり、ルーズベルトはすっかり共産党に操られていたことが判明したのです。その中心はハリー・デクスター・ホワイトとロークリン・カリーです。ホワイトはルーズベルトが最も信頼するモーゲンソー財務長官の片腕として、1941年に筆頭次官補、45年には次官まで昇進しました。カリーは中国問題担当の大統領特別補佐官です。

更にエレノア大統領夫人は共産党のシンパと言われています。更にルーズベルト本人の母方のデラノ家は香港を中心に阿片貿易で巨万の富を築いており、その縁で親中国でした。更に彼は田中メモリアルを信じていました。

田中メモリアルとは田中義一首相が昭和天皇に上奏したと言われる「満蒙積極政策」で「将来中国制圧を欲するなら先ず米国を倒さねばならない」「世界を征服しようと思うなら先ず中国を征服しなければならない」と書かれていたと言われます。この文書は戦前・戦中を通じ、日本のアジア侵略の計画性を証拠づけるものとして盛んに引用されました。しかし今日では、この文書は中共により偽造されたものだというのが通説になっています。

更に日本でも近衛首相の有力なブレーンであった尾崎秀美が、ゾルゲ事件でソ連のスパイだったとして処刑されています。私は大東亜戦争の原因はコミンテルンの陰謀に、日米共にのせられたものだと思います。と共にアメリカが共産党について余りにも無知だったことが大きいと思います。
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