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スリランカの内戦 (2) 

FI76356_0E.jpgスリランカの内戦状況とキリスト教という文書があります。キリスト教が多宗教間連帯を説いて、スリランカの内戦をキリスト教の立場から内戦状態のスリランカを憂慮して、なんとかできないかと活動している全部で6ページのレポートです。これを読んで、私は複雑な思いを抱きました。キリスト教という宗教が友愛を説き、人種・宗教に根元があるこの内戦を憂うのはもっともですが、元々の発端は、キリスト教国であるフランスとイギリスの確執に端を発しています。それは帝国主義の時代の産物で、現代のキリスト教徒には関係のない話で、帝国主義は宗教とは関係ないとはいえ、その当時のイギリス・フランスの国民はほとんどがキリスト教徒でした。キリスト教徒で構成される国家が、植民地帝国主義で南アジア諸国を蹂躙した歴史を踏まえての、現代のキリスト教が果たしうる行動というのなら私もあまり複雑な思いを抱かなくて済むのですが。

まずは、この文書中の引用をみてみます。

ソマシリ・ペレラ「希望」『スリランカのための哀歌』(Somasiri K. Perera, “Hope,” in A. Wynne ed., Lament for Lanka, CCA-IA, 1989. pp.125-126.)より

1983年の暴動の直後のことでした。仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒による会議がコロンボで開かれました。・・・私は話を求められ、次のように発言しました。『キリスト者として、私はこの両手が無実のタミル人の血でぬれているとしか思えない。私は人を殺してはいないが、キリスト教の教えを見ると、連帯という考え方、集合的責任という考え方があります。私はシンハラ人で、シンハラ人はタミルの人々を殺しました。・・・ですから、私はタミルの兄弟姉妹たちに、シンハラ人としてなした事柄について、どうぞ私たちを許してくださいとお願いいたします』と。・・・私はこのことをキリストの福音の重要な部分だと信じています。ある人たちに対して不正をなしたときに、申し訳なかったと言い、許しを請うことなくして、いかなる和解についても語ることはできません。・・・キリスト者として私は、癒しと和解とは、悔い改めと許しがあってはじめて起こるのだと信じております。

と、このように説かれると、もっともであると納得してしまいます。仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒よりもキリスト教徒の方が寛容で慈愛に満ちているかのような印象を持ってしまいます。1983年の暴動は、主に仏教徒のシンハラ人がヒンドゥー教徒のタミール人に攻撃をかけたからです。キリスト教徒、イスラム教徒はあまり関与していなかったという事実があります。だから、キリスト教側は調停ができる立場であり、各宗教の調停を行う権利があるかのような主張です。

リエンツィ・ペレラ「国家的危機における教会」(Rienzie Perera, “The Church amidst the National crisis. A Southern Perspective. The place and the responsibility of the Sri Lankan Church in a situation of conflict,” Sri Lanka. hopeless & challenge. The Mission of the Church in situations of conflict. CCA-IA. 1992. pp.51-62.)より

南部での私の仕事は、スリランカ全土が内戦に巻き込まれていた時期に始まった。今でも忘れられないのだが、私は、町の四辻で身元の分からない半焦げ状態の死体が放置されているのを見た。一般市民を恐怖に陥れるために、街角に死体をぶら下げておくことがしばしば起きていたのである。私にとって、それは十字架刑のシーンであった。首なし死体が見慣れたものとなっていた。町全体が不安と恐怖の空気で充満していた。

FI76356_1E.jpgこれは1988年8月頃に発言されたものです。私のその当時コロンボにおりましたので、「町の四辻で身元の分からない半焦げ状態の死体が放置されている」光景はよく目にしました。河に「首なし死体」が流れてくるのも日常茶飯事でした。

これらのことは、今から23年前の暴動事件から始まったと言われていますが、この仏教徒のシンハラ人がヒンドゥー教徒のタミール人に攻撃をかけた事件が、突発的に発生したわけではありません。

この暴動は、

1983年07月24日
コロンボ市内各地で、タミル人の商店に対する放火や略奪などが続発し、タミル人大虐殺へと発展。コロンボのウェリカダ監獄で、タミル人政治犯など53名が虐殺される。コロンボ市内に外出禁止令(同月27日に解除)

という事件でした。その翌々日にも、

1983年07月24日
暴動が、ガンパハ(Gampaha)、カルータラ(Kalutara)、キャンディ(Kandy)、ヌワラエリヤ(Nuwara Eliya)、マータレー(Matale)、トリンコマリー(Trincomalee)などに波及。全島に外出禁止令(月末に解除)。この「1983年の暴動」によるタミル人の死者は数百人、家を失ったものは9万人に及ぶとされる。

という事件が続き、現在に至っているということです。

では、その以前、さらに以前、200年前には何が起こっていたか?歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。
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