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神道と天皇制を考える(3) 

次に原発の事に関して書かなければいけませんので、突然、続き物の(3)から始めます。

このシリーズ、私は何を言いたいのかを整理してみます。

1.神道の起源は、天皇家が日本に来た弥生時代よりもずっと古い。
2.天皇家が神道に結びつけられるのは、天皇家よりも古くからある神道(山岳信仰、怨霊信仰)を簒奪・憑依したものであり、天皇家が神道を創設したわけではない。
3.現存する神社のほとんどは、天皇家とは縁もゆかりもないものである。
4.古代において神社を総覧した天皇家は、中世・近世においてその力を失ったわけであるが、それが慶応4年から再度その力を盛り返したのであり、中世、近世も含めて天皇家が神社を総覧したわけではなく、断絶している。国家神道という概念も慶応4年からはじまった新しい概念である。

など、まだ整理していませんが、ここら当たりをつらつらと述べてみたい。しかし、もちろん、一技術者で、日本史の専門家でも宗教の専門家でもありませんので、間違いがありましたらご指摘下さい。

また、

このシリーズで天皇制批判をするわけではありません。我々の意識として、いつもくっついていて離れない、神道と天皇、或いは天皇制というものが、本当は別物であるということを述べてみたいだけです。つまり、たった千数百年か二千数百年かわかりませんが、朝鮮或いはツングースから来た天皇家が神道を創設したのではなく、神道というのは縄文時代からあり、弥生時代に受け継がれて、今日に至っている日本民族独自の宗教形態であり、大陸から来た天皇家はそれを簒奪・憑依しただけであることを述べてみたいのです。

それから、

神道というと、神社であり、鳥居などの道具が揃っていると勘違いしがちですが、鳥居などというものは、後世付け加えられただけで、それらの神社らしき道具立てが揃う何百年、何千年前から、その場所の由来で、雰囲気で、そこが崇拝されていたということが多い。神社と言っても、神社の道具立てを述べるわけではありません。その起源を述べていきたいと思います。

【自然神と人神】

現在の神社に祀られているのは、自然神と、人が逝って神になった人神です。しかし、人神というのは、どうも弥生時代以降、とりわけ天皇家が神社組織を簒奪・憑依した後に人とこじつけられたような気がします。まだ、気がする、だけでなんの証明にもなっていません。

さて、神社を考えるのに、まず自然神として考えたい。自然神として考えるためには、何故そこの場所が敬われる、或いは恐れられる場所だった(過去形ですよ、過去形)のか?を考えないといけないと思います。

例えば、富士山は、現在の形の富士山になったのは近世の事です。富士山は、40~50万年前の小御岳火山、2~8万年前の古富士火山、そして1万年前に形成された新富士火山の3世代にわたる噴火活動によって現在の円すい形を形づくってきました。新富士火山も、江戸時代の1707年(宝永4年)に爆発的な大噴火をして宝永火口をつくり、東側に火山灰による広大な火山荒原を形成して現在の形になったわけです。縄文時代・弥生時代の人間が見た富士山は、現在とは違った物でした。

私たちは、現在自分たちが見ている地形、海抜で、古代の建造物の地理を考えがちです。ところが、現在私たちが見ている地形、海抜は、完新世(沖積世)の最終氷河期の後何度も変わっています。

1万4600万年前、北海道は樺太と陸続きでしたし、本州・四国・九州は一つの大きな島でした。1万600年前頃、本州・四国・九州が分離し、北海道も樺太と離れてほぼ今の日本列島の形になりました。8900年前頃も同じくで、多少現在よりも日本は大きかったのです。

FI1571655_0E.jpgこれらの日本の面積の変遷は、地殻変動とあまり関係はありません。海水面の上下動に関係があります。つまり、氷河期に形成された膨大な量の氷河が溶けて、溶けた水が海水面を押し上げたのと、氷河によって圧迫されていた地殻がバウンドして、あるところでは押し上げられ、あるところでは押し下げられたわけです。しかし、日本列島の場合は、地殻の動きとはあまり関係がなく、ほとんど海水面の上昇に由来して面積が変わっています。

8900年前から現在までで、現在よりも日本の面積が小さくなった時期がありました。その時期を縄文海進(参考:第7回「縄文の人々と日本人の起源」)と呼びます。6000~7000年前の事です。BC60世紀から70世紀の間ですね。この頃の世界は現在よりも温暖化が激しく、平均温度も現在よりも数度高かったのです。上図は、その頃の日本の海岸線です。

FI1571655_1E.jpgつまり、縄文時代の人間を考える時、現在の日本列島の地図ではなく、当時の現在よりも後退した海岸線を持つ日本列島を念頭に置いて考えないといけないということです。前回話題に出した鶴ヶ丘八幡宮も同じです。(参考:縄文海進-鶴岡八幡宮下まで海-)左図は、縄文海進の頃の関東地方の海岸線です。

また、忘れてならないのは、縄文海進が温度上昇につれて、徐々に比例的に海面が上昇したのか、それともあるとき突然数mも海面が上昇したのかわからないことです。徐々にでしたら、海岸線に住み着いた縄文人は、海岸線の後退につれて住居を内陸へ、内陸へと移したでしょう。その時、文化も無理なく移せたでしょうが、急激な海水面の上昇、この前のインドネシア沖地震の際の津波のような出来事が起きたら、縄文人はかなりの人間が死亡したり、逃げられたとしても、文化を伝える物を持ち出せなかった可能性があります。

さて、縄文海進が終わっても海岸線はすぐには元に戻りませんでした。現在の海岸線(もちろん江戸・明治時代以降の埋め立て地は別として)に戻るのに数千年かかっています。だから、古代の神社が現在内陸部にあるからといって、縄文・弥生時代にはその神社が内陸部ではなく、海岸沿いに創建された可能性もあるのです。

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コメント

そうですよね

ちょくちょく遊びに来ます。継続して更新凄いです。私も頑張ります。もう寒くなってきたので体に気をつけて下さい。また拝見させて頂きます。

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