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「私の個人主義」 

と、まあねえ、政治の話ばっかり書くと、スリランカはなんて危険な国?!などと誤解を与えます。

陽気で、モディアな。。。おっと、おっちょこちょいのスリランカ人、気にせず生活をしております。

話は違いますが、私の娘、香港のイングリッシュスクールで講師の助手のバイトをしてます。大学入学までまだ4ヶ月あります。で、そのイングリッシュスクールからオファーがあって、正規で働く気があったら、2万ドルだそう、と申し出があったそうです。

30万円。ボーナス付き。

娘、迷っております。まだ、17才なので社会勉強で、大学を1年遅らせようかとか。NZの大学ですから、来年も入学に問題はない。入試がありませんのでね。本人の決断次第です。私も大学に行く前に社会勉強はいいかな、とも思ってます。浪人というわけでもありません。

で、話はまたまた違いますが、娘曰く、もしも容貌がスリランカ人ぽかったら、絶対にイングリッシュスクールで教えられない!とのこと。私の娘は、まず純血の日本人に見えます。だから、イングリッシュスクールで採用されたとのこと。ブラウンはダメなんだそうです。

インド人で経済学のドクターの資格がある女性の知り合いがいます。その女性、大学では教鞭を取れず、ファイナンス会社で働いているとのこと。

「そういう人種差別があるのよ!」

と娘は言います。

「だけどさ、アドバンテストホスピタルでインド人のドクターいるじゃないか?」と私が反論しますと、ヨメは、

「それは何世代も香港に住んでいるインド人で、資本入れているとかもあるからじゃない?ちょっと来ただけじゃ、いくら資格がすごくてもブラウンはダメなのよ」と言います。

「シンガポールはそうじゃなかったじゃないか?」と私。

「シンガポールは国際都市!香港はチンキーの国!」と怒ってます。チンク(し、失礼!)は嫌いなヨメです。

中華系のみなさん、失礼しました。。。_| ̄|○

う~ん、偶然、たまさか、娘は日本人的容貌でしたが、彼女がブラウンだったとしも中身が変わるわけじゃなし。差別ってのは嫌なもんです。

ま、彼女が日本人ガッコに行っていたとしても、混血故の差別はあったでしょう、確実に。日本人もあまり香港人を笑えませんからね。

さて、では、混血とか差別について。

司馬遼太郎さんが書かれておりますが、文明とは普遍化された言語・習慣・習俗なんだそうです。文化というのは、普遍化されていない言語・習慣・習俗のこと。大学の単位に求められている内容は「文明」に関することで、町のカルチャーセンターで教えているような内容は「文化(カルチャー)」なんて理解するとわかりやすいかも。

何が文明で、何が文化か、というのは、正しい、正しくない、という正否の価値観では決められません。普遍化というのは、まあ、たいがいの人が納得する単純化された物ということ。そして、メジャーかマイナーかで、「文明」、「文化」の差が出てきます。

中国文化は、中国文明と呼ばれる物の一部。インド文化もインド文明と呼ばれる物の一部。ヨーロッパもそうです。アメリカはヨーロッパ文明の一部を継承している。ハリウッドは、カルチャーですね。

そこで、日本の場合は、日本文明とは言えない。日本文化です。ただ、人口が多いのと、徐々に世界に浸透したので、疑似文明程度にはなってきましたが、いわゆる(いわゆるで厳密な意味ではないですが)単一民族・単一言語なので、血脈を引いていないと、日本疑似文明を個人で継承するのは難しい、というのが日本社会の通弊。この閉鎖性も文明に昇格しない理由なんでしょうね。

血を尊ぶ日本人ですから、混血にも、上品(じょうほん)、下品(げぼん)があります。古くは、日本に渡ってきた消滅した百済人や漢の時代の楽浪郡が消滅した時の漢族などは、その当時の上品(じょうほん)に相当しましたから、出自を隠す必要がなく、混血でも日本社会内では文明社会から来た、というので尊重されました。今、中国人の混血というのは尊重されないと思います。漢の時代の文明と現在の中国文化は違いますから。

それから、肌の色。白っぽいのがいいのでしょうね。だから、ロシアは文明とは言えませんが、ロシア人との混血でも、一応白なので上品(じょうほん)の部類に入るのでしょう。南アジア人はブラウンですから下品(げぼん)の部類なんでしょうか。例えインド文明を背負っていたとしても。古代は、インドの仏僧が渡ってきましたが、これはその当時のインド文明があったから上品(じょうほん)になったのでしょうかね。

言葉やら持ち物やらが「みんなと違う」だけで差別されるという社会、これはちょっと前まで、横並び一線、企業から個人まで、集団で皆同じ疑似日本文明を理解する秩序を保っていた日本人社会が、高濃度の硫酸に水を一滴でも垂らすと水が気化して硫酸全体が爆発したように反応するのと同じようなものなのでしょうね。でも、これは東アジア社会でも同じで、中国でも韓国でもそれは大小がありますが差別はあるようです。儒教的社会の傾向と、共産主義的、社会主義的社会の傾向とがない交ぜになっているのでしょう。西欧の個人主義的な個々人の独立とは相反するものがあります。

もう、既に、明治の時代に、夏目漱石などが『私の個人主義』の中でもそれを述べています。

『私の個人主義』
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売(うけうり)をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢(どひ)でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具(そな)えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

夏目漱石が「私にそう思えなければ」と言うのならこれは極めて個人的なことですが、「これくらいの見識は国民の一員として具(そな)えていなければならない」などと、日本人社会のコモンセンスに従うという、或いはコモンセンスを代表した考えを示すというのは極めて集団的なことで、これではまったく個人主義とは言えない。「言葉やら持ち物やらが『みんなと違う』だけで差別されるという社会」なのですから、例え個人の思想、好み、感情、見識であっても、集団を意識しなければいけないような日本の個人主義の貧困があります。しかし、夏目漱石もそうは言い切れない。そこに彼の相克があったと思います。

『私の個人主義』
今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯(しょうがい)の事業としようと考えた

非常に苦しい言い訳、言い逃れに思えます。

ある在外邦人の子供をお持ちの奥さんは、「日本の友人などからはこちらの反日感情を随分心配されますが私がこわいのはむしろ帰国後の日本人の『よそもの差別』です。。。 」と言われます。

明治の時代の方が、むしろ開明的で、社会の中の異人もすんなり受け入れたのでは、と私は思います。それが、大正末期から昭和20年まで、文明への昇華とは逆の、ナショナリズムに日本文化が向かってしまった。鬼畜米英が現在でも生きている社会になっています。だから、イラン人の問題でも、在日の問題でも、文明たり得ない日本文化、日本疑似文明ですから、高濃度の硫酸に水を一滴でも垂らすと水が気化して硫酸全体が爆発したような反応をしてしまうのかもしれません。

本当なら、私達在外邦人が外国居留の後、どんどん日本に戻って、高濃度の硫酸をどんどん薄めなければいけないのでしょうが、逆に、在外邦人は住みにくい日本に戻るのを嫌う傾向が徐々に強まっているようです。それだけ、日本の硫酸の濃度が濃くなっているからなんでしょうが。

外国人に、この希釈をさせるのは無理ですね。硫酸ではなく、水酸化ナトリウムのようなものですから、希釈できない。化学反応になってしまいます。やはり、同じ日本人で、ただちょっとよその文明に触れたという人間でないと希釈できないのかもしれません。

日本人はどこへ行くのか?難しい問題だと思っています。
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