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集中・集中力(3) 

明治維新以降、西欧文明の様々な学問が流入してまいりました。それら学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳するに当たり、翻訳者は悩んで造語をしたり致しました。物理学とか化学とか、まったく過去の日本語にない概念・物質の用語はこれを造語するか、類似の日本語をひっぱてくる他はありませんでした。しかし、ほとんどが造語。「量子」なんて過去の日本語にありませんでしたからね。

ところが、心理学とか哲学、これは中国渡来の類似の用語がたくさんありました。仏教用語もしかり。だから、こりゃあ便利だ!造語しなくて済む!と翻訳者は仏教用語などで、心理学とか哲学などの学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳したんですね。その中で、変な訳語もあります。

無意識

なんでしょうかね?

むいしき【無意識】 (名http://www.geocities.jp/butsuzo1220/buddha/html/bkihon.html・形動)
(1)意識がないこと。気を失っていること。「―状態」
(2)自分のしていることに気づかないこと。意識しないでしてしまうこと。また、そのさま。 「―に手を動かす」「―に他人を傷つける」
(3)〔心〕通常は意識されていない心の領域・過程。夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。潜在意識。深層心理。

ふむふむ。じゃあ、意識とはなんですかね?

いしき【意識】(名)
(1)(ア)物事に気づくこと。また、その心。感知。知覚。
「―を集中する」「人の目を―する」
(イ)(混濁・無意識などに対して)はっきりした自律的な心の働きがあること。自覚。覚醒。見当識。「―を失う」「―が残っている」
(2)状況・問題のありようなどを自らはっきり知っていること。「―が高い」「罪の―」
(3)〔哲・心〕〔(ドイツ) Bewutsein; 英 consciousness〕(ア)思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など、客観的なものに対する。現象学では世界を構成する超越論的自我の働き、また唯物論では存在に拘束される観念一般を意識と呼ぶ。
(イ)単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。また、その作用・内容など。自己自身を対象化する対自的・反省的働き、人格あるいは自我による統一・自律、一定水準の明晰(めいせき)さなどによって規定される。自己意識。
(4)〔仏〕〔梵 mano-vijna〕六識の一。感覚器官による眼・耳・鼻・舌・身の五識に対し、心の働き、精神の働きのこと。第六識。

ふむふむ。(4)の意味にもあるように、元々は仏教用語を持ってきた、ということですね。では、英語で言えば、【意識】=【consciousness】はわかりました。じゃあ、この場合の哲学・心理学で言う意味の無意識は、【無】=【un-】だから、

【無意識】=【unconsciousness】

なのでしょうか?直訳すると。違いますね。日本語の辞典には、

unconsciousness
━━ a. 意識を失った; 無意識の; 知らない ((of)); 知らず知らずの.
━━ n. 【心】(the ~) 無意識

と書いてありますが、【unconsciousness】というと、普通、医学用語になります。要するに、死んだか、植物人間か、【coma】=【昏睡】状態の事を言います。全然、心理学・哲学でいう【無意識】とは意味が違います。辞書で書いてあっても通じません。英語では、この場合の無意識を【unconsciousness】とは言わないようです。むしろ、この意味での用語では、

subconscious
━━ n., a. (the ~) 潜在意識(の), ぼんやり意識している(こと)

だったのではないでしょうか?元々原語では、【subconscious】=【潜在意識】という翻訳をしていたのに、仏教語でしか存在しない、そのまま訳すと【unconsciousness】になる用語もまた、【無意識】=【subconsciousness】としてしまって、あたかも【無意識】というものが西欧社会でも、哲学・心理学分野で認知されているように翻訳してしまったのかもしれません。

ですから、無意識ってのは、昏睡状態として私は扱いますが、どうも、巷(ちまた)では【意識の対極にある物】=【無意識】として取り扱っている節があります。で、無意識が何か人間を操作しているとか、わけのわからない話をしていますが、そんな存在しない物を私は論じる気にもなりません。だって、【無意識】=【意識がない】=【人間として存在していない】のですからね。

あるサイトではこんなことを言っています。

「無意識と武道」
人の心の中には自分では普段意識していない無意識の世界があることをご存知ですか?自分の心は自分で意識でき、自分でコントロールし、自分の行動は自分で決めていると考えるのが普通なのですが、実は人の心の中には自分では意識できない深層の心理(無意識)があり、普段行っている何気ない動作や行動、考え方は、これらの強い影響を受けているのです。「そんなことが、格闘技(武道)に何の関係があるんだ?」と、皆さんはそう思うかもしれませんが、例えば試合中、自分では意識できずに負けを呼び込んでしまうような動きをしているとしたら、どう思いますか?また、試合に限らず、人生におけるピンチの場面で、自分の判断がやはり無意識に支配されていて、適切な判断に誤りが生じてしまうとしたら、大変恐ろしいことだと思いませんか?実は武道をはじめとする東洋の文化は、この無意識を意識が冷静に観察し、どう取り扱っていくのかということがテーマであった、といっても過言ではないのです。

なぁるほど。このあとフロイトなんぞを引用してもっともらしく述べていますが、これは、西欧心理学(それも初期フロイト学派)と仏教用語の混乱した使い方ですねえ。翻訳語に惑わされている典型です。

私は、

【意識】=【(顕在)意識】+【(潜在)意識≒いわゆる無意識】

として扱います。ただし、私が潜在意識と書かず、【無意識】と書いた場合は、今まで誤解され続けてきたありもしない状態の事を言っていると致します。

FI968166_1E.pngさて、

FRANK LLOYD@Age 8のガッコのセンセを思い出して下さい。このセンセの考え方は、左の図にあるように、意識の周り(周りと言うより、2次元の図だとわかりにくいですが、意識の下(識域下)の領域に無意識が潜んでいて、そこによそ見をしたり、よその子に話しかけたり、マンガを読みたいと思ったりする煩悩・妄執が存在していると想像したのでしょうね。これを読んでいる皆さんの中でもこういうように思っている人もおられるかもしれません。しかし、こんな図で表される無意識というものも、煩悩も、妄執もありません。

仏教のサイトの中で以下のような記事を見つけました。


戦争にしろ、テロにしろ、最終的に決断し行動を起こしたのは、精神であって、精神的な世界の認識がゆがんでいるために、その行動自体もゆがんで来るという事です。ここで大事なのは、精神そのものを問題にするのではなく、そこに働く「認識」を問題にすることです。
仏教の方面から見ると、どうも我々の認識している世界は、最初から煩悩に覆われているため、その実在がはっきりと見えていない、としきりに説きます。我々が、眼耳鼻舌身(触)意の六識で認識する世界は、ほとんど夢幻(ゆめまぼろし)の世界であって、本当の実在というものは我々の煩悩を取り去らないと見えてこないと言います。では、本当の実在は何であるかと言えば、空である、とこう言う訳ですね。空に関しては、前回まで色々議論してきたのですが、実際にはもっともっと深い意味が隠されていると見て良いでしょう。

ホントですか?

本当の実在というものは我々の煩悩を取り去らないと見えてこない。
本当の実在は何であるかと言えば、空である、とこう言う訳です。

FI968166_2E.png本当ですか?ここで言っている空というのは、西欧の哲学・心理学伝来前の本来の仏教用語の「無意識」に当たるようですが、それが左図のようになっているってこと?


画像で見られるような、「集中」という何かがあって、それを「集中」することで、「集中」が大きくなり、「集中」したので、意識が集中なるものに飲み込まれる、なんて座禅の修行で考えていることは実際は起きません。

座禅の修行というのは型です。結跏趺坐というのをご存じですか?座禅で修行の際に組まされる座り方です。やられた事はありますか?おられるなら、あれは結構痛いものだというのがわかります。或いは、正座を考えてもいいかと思います。つまり、それらの姿勢を続けるだけで、痛い、という痛覚が生じます。

なんだか知りませんが、「集中」なる抽象概念を通して、無我の境地(つまり意識を狭め無意識を広げる)に至り、「悟り」なるものを会得させるそうですが、その前提条件として、正座なり結跏趺坐なりの姿勢が大事で、その姿勢を保ちながら(正しい姿勢で)無我の境地になり、煩悩・妄執を縮小させ、意識ののぼらせないようにして無意識の片隅においやり、そして悟りを得る。

悟りを得る前に、「シュウチュウ」する前に、痛みに「シュウチュウ」してしまって、「集中」にシュウチュウすることはできないですね。で、意識を縮小させる行為も、痛みが妨げます。悟りに至る姿勢を保つが故に、それが痛みを生じさせてシュウチュウを阻害する要因になる、なんて馬鹿げたことなんですね。

お釈迦様の像をそこここのお寺さんで見ますね?その座り方は結跏趺坐の姿勢のものもあります。しかめ面しく座っています。インドでそんな座り方をしているのがポピュラーと思われますか?

まさかね。インドじゃそんな無理な座り方をするのは修行中(あくまで修行中、覚醒した、悟りを開いた人はしません)のバラモン(ブラフミンのカースト出身の仏教の僧を指す)が修行の一環として(一部として)座っている姿勢であって、いつもいつもあんな座り方ができるものではありません。だいたい、「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」ということで、「吉祥」、「降魔」という呪術的目的を持った座り方ですね。

仏像の基本形

それよりも楽な、「善跏倚坐」「半跏倚坐」「輪王坐」「半跏趺坐」を取っている仏像も数多くあります。辛い姿勢の「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」なんて、意外と少ない物です。インドなんかでは、「輪王坐」=立てヒザが多い。西欧人と同じで正座・結跏趺坐を出来る人は少ないのです。

まあ、シルクロードを伝わっていく内に、マゾが一人いて、それがマゾヒスティックな座り方が正しいとでも思いこんで、間違えて伝承したんでしょう。集中するのに、わざわざ辛い姿勢を取ったら、集中が妨げられるでしょうにねえ。

ですから、数十人のガキが、狭い教室で、背をまっすぐ伸ばして、先生の話を一心不乱に聞く、なんて状態は、ガキにロボトミー手術でも受けさせない限り不可能なんですよ。逆に、背をまっすぐ伸ばした姿勢で、先生の目を見つめている生徒は、心はどこかに行っていることが多い。

私はプレゼンテーションを日本人、中国人、西欧人相手に致しますが、長年やっていると、この背をまっすぐ伸ばしたキチンとした姿勢で、FRANK LLOYDの目を見つめている聴衆の方のほとんどが私の話など聞いていないことに気付きました。

彼らにとって大事なのは、私の話を真摯に聞いている姿勢を取り、私に失礼にならないように、そして、端から見て私の話を真面目に聞いている印象を受ける「姿勢」を保つ事なのです。私の話の内容など関係ないのですね。

むしろ、内容がわかって、「集中」して聞いている人は、他の人間が彼、彼女をどう見ようと関係なく、ウンウン頷いたり、前に乗り出したり、目をつぶり腕を組んで耳を澄ませていたりします。

本当に集中しているのであれば、姿勢なんか関係ないのですね。で、姿勢が関係なくなりますから、鼻水垂らしても関係なく集中してトランペットを吹く奏者のように、顔は弛緩し、口をおっぴろげ、髪の毛をかきむしったりする人間もおります。集中している人間は誰も、結跏趺坐で座っているような、背をまっすぐ伸ばして座っているような、マナーに合った姿勢など保てません。集中しているのですから。外聞は関係ないのです。
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