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女性による経済活動と民族対立が引き起こす経済問題 3 

3.言語をめぐる民族対立
 独立後のスリランカ社会を大きく変える役割を果たしたのは、シンハラ語の公用語法(1956 年)である。英語を母語とするランシー人たちは、この島に展望を持てなくなりオーストラリアなどへ移住した。1960 年代までは英語を話せる者だけが、成人男性なら長ズボンと革靴を着用し、女性ならタイトスカートとハイヒール靴を着用することができた。逆に、シンハラ語やタミル語しか話せないものは、男ならサロン(筒状の腰巻き)、女ならレッダを着る習わしになっていた。外見的に区別でき、何語で話しかけるべきか戸惑う必要がなかった。しかし、今日でも、英語の優勢は変わらず、大学を卒業しても英語のできない学生は、ほとんど就職できず、大半が失業者になっている。
 現在では衣服を見て、使用言語を切り替えるというような判断は不可能になった。英領時代には、英語社会と現地語社会とは整然と区分され、両者の接点も少なかった。だが、シンハラ語やタミル語による公教育が進展すればするほど、英語をめぐる屈辱感は、植民地時代には想像もできなかったほど拡大している。このような屈辱感も一律ではない。上はイギリスやアメリカの知識人に会ってスリランカ英語の弱点を意識するエリートたちから、下は街で英語の返事ができず黙ってしまう労働者や農民に至るまで、使用できる英語の水準に応じて問題の性格も変わり、階層化されている。
 英語を話す指揮官を除くと、戦場に行く軍人もまたたいてい英語を話さない農村出身者である。エリート階層は、子弟を海外に留学させたりして、なるべく軍隊には行かせないようにしている。農村地帯へ行くと、軍人や警察官の戦死者を出した家庭が、その遺族補償金で立派な家を建てている。あるいは、女性労働者がクウェートやサウジアラビアに出稼ぎに行った家庭が立派な家を建てるという傾向が見られる。
 英語の習熟度に対応して社会的な階層を上昇することができる暗黙の合意がある以上、外国語の支配力は衰えない。1999 年12 月24 日の朝刊に、スリランカの大統領がロンドンに目の治療のために出発したという記事が出ている。大統領一家は、大統領を始め子供たちも海外の教育を受けてきた。けがや病気をするとロンドンに飛ぶということをごく日常的にしている。大統領選挙の後にロンドンに飛ぶというようなことも、スリランカは医療が非常に進んだ国だと言われている中で象徴的な記事である。
 英語の支配力に敵意を燃やすシンハラ人の人民解放戦線(JVP)やタミル人のイーラム解放運動の諸党派は、いくたび軍事的な鎮圧を受けても再び社会的な勢力として甦ってくる。コロンボの政治家や実業家が英語で仕事を続ける限り、政府軍との戦闘において民衆の生命を犠牲にしているはずのJVPやLTTEが、英語のできない島民大衆の支持を受けるという皮肉な事態は変わらないであろう。
 スリランカの仏教、ヒンドゥ教、イスラーム教の伝統は暴力を強く戒め、言語表現に重きを置く。中でも大勢の人間が一斉に声を合わせ、信条の成句を朗誦することが大切である。声帯の振動が空気の振動を呼び起こし、鼓膜の振動に共鳴する行為を通じての共同意志の確認である。声帯から鼓膜へという身体的な行為としての言論が、皮膚を切り裂く身体的な行為としての暴力に優越すると固く信じているのである。スリランカにおける伝統的な村の境界は、手助けを求める「フー」という叫び声の聞こえる範囲である。
 その伝統文化の中で、1970 年に始まる武器を取って戦う運動の長期的な継続は、スリランカ近代史の経験をはるかに越えている。18 世紀末にスリランカ島の沿海地方は、オランダの植民地から英領に代わるが武力抗争は全くなかった。1815 年に内陸部のキャンディ王国が英領に併合されるが、併合条約の締結という形を取り、シンハラ王朝側の武力による抵抗はなかった。2 年後に一部の貴族が反乱を始めるが、直ちに鎮圧され長期化することはなかった。1848 年のキャンディ地方における農民反乱も同様で、極めて限定的なものに止まった。20 世紀に入ると、植民地行政への批判は合法的な議会主義的な形態を取った。1920 年代から30 年代にかけて英国に留学した多くの青年は、マルクス・レーニン主義の左翼運動に惹き付けられて帰国するが、暴力革命の組織化には向かわなかった。
 1930 年代にはスターリン主義者とトロツキー主義者との間で、激しい論争が繰り広げられた。他のアジア諸地域と異なり、スリランカではトロツキー派が勝利を収め、多数派の平等社会党が第4インターナショナルに加盟する。しかし、スリランカのトロツキー主義者は植民地の議会で活躍し、スバース・チャンドラ・ボースのような武装した独立闘争には向かわない。英国で博士号を二つも取得するほど英国のシステムに同化したN.M.ペレーラ(後に大蔵大臣に就任)が、第4インターナショナル・セイロン支部長を務めた事実は、言論を大切にする議会主義的なスリランカ左翼の性格を象徴している。マハトマ・ガンディの運動が、非合法闘争にならざるをえなかったのと対照的である。
 1970 年4 月5 日の早朝を期した人民解放戦線の武装蜂起は、暴力の時代の出発点であった。1 両日中に反乱軍の組織的な暴力は、全島面積の約3 分の1 以上(シンハラ人居住地域の半分以上)を支配下に置き、世界を震撼させた。当時の冷戦構造にもかかわらず、北朝鮮を除く西側と東側の両陣営とインドやユーゴスラヴィアなどの非同盟諸国がこぞって軍事援助を行い、数ヶ月の内に武装反乱の主力部隊は鎮圧された。この年以来、スリランカにおける軍事部門の拡充が進み、兵力は飛躍的に増強された。反乱は軍事的に鎮圧され、多くの指導者たちは戦場や刑場で命を失うが、後を継ごうとするシンハラ青年の志願者が絶えることはない。議会に占める政党各派の議席数とは無関係に、JVPは1999 年末現在もなお、シンハラ人居住地域の主要キャンパスにおける最大の政治勢力である。

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