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教育基本法改正案 

教育基本法改正案は、自民党案よりも民主党案の方がより突っ込んだ内容で、愛国心に関しても、自民党案よりも大胆な案になっているという話もあります。ですから、民主党案に対しても反対の声が出ています。

教育基本法の基本理念を否定する民主党「日本国教育基本法案」
 2006年5月23日、政府・与党の教育基本法「改正」法案への対案として、民主党は「日本国教育基本法案」を国会に提出しました。この「日本国教育基本法案」も、政府・与党が提出した教育基本法「改正」法案同様、現行の教育基本法の基本理念を否定しており、以下のような問題点があります。
 ① 愛国心、宗教的情操の涵養の明文化
 愛国心の扱いについて、与党案が「国を愛する態度」としているのに対して、統治機構を連想させる「国」という言葉を避けて「日本を愛する心」としたとしています。しかし、かつての軍国主義時代の愛国心教育においても統治機構としての国家を愛せなどとは言わず、日本あるいは郷土を愛せと言っていたのであり、これで歯止めになると予想することはとても困難です。
 民主党はこの「日本を愛する心」を条文ではなく前文に入れたことで、強制力はないと言っています。しかし、現行の教育基本法が準憲法といわれてきたのは、前文において憲法と密接不可分の関係が示されているからです。つまり、前文とは、その法律の全体を貫く原則・理念を示すものですから、「日本を愛する心」が前文に書き込まれれば、すべての条文にそれが影響します。ですから、例えば「日本に居住する外国人に対し」ても「日本を愛する心を涵養」しなければならないことになります。
 また宗教教育で尊重されなければならないものとして、「宗教的感性の涵養」が新たに書き込まれました。「感性」となっていますが、これは政府・与党案では見送られた「宗教的情操」と変わりはありません。日本ではかつて「宗教的情操の涵養」の名目で国家神道的教育が行なわれたことがあり、子どもたちの内心の自由を侵害する可能性の高いものです。この文言によって、特定の宗教教育や国家主義教育が正当化される危険性があります。
 ②「個人の尊厳」、「個人の価値」の削除
 現行法の前文にある「個人の尊厳」、第一条(教育の目的)にある「個人の価値」がいずれも削除され、「人間の尊厳」へと置き換えられています。国家中心であった教育勅語を否定し、「個人の価値」を基盤とする現行法の基本理念が否定されているといえます。政府・与党案同様、民主的で文化的な国家、社会及び家庭の形成者たるに「必要な資質」が第一条で定められており、これでは国家が要請する資質を身に付けることが「教育の目的」とされてしまいます。従って第二条「学ぶ権利の保障」も、一人ひとりの学習者個人の意思を十分に尊重したものではなくなる危険性があります。
 ③新自由主義による競争・格差の拡大
 民主党案では、現行法第三条(教育の機会均等)にある「すべて国民は、ひとしく」の「ひとしく」が削除されています。項目のタイトルも「教育の機会均等」ではなく、「適切かつ最善な教育の機会及び環境の享受等」とされており、機会均等の保障としては十分ではありません。
 第四条(学校教育)では新たに、本人及び保護者等の関係者に学校が情報を提供することと、「点検及び評価」が義務化され、国及び地方公共団体が、学校による情報の提供と点検及び評価の実施を「支援」することが明記されています。例えば「基礎的な学力の修得」(第七条)として2007年度から導入される全国学力テストが位置づけられ、「点検及び評価」が実施されれば、学校ははっきりと序列化され、競争が激化することとなるでしょう。学校の「自主性及び自律性」(第四条)や保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会の「主体的・自律的運営」(第十八条)も学力テストの点数をめぐる競争に「従属」することになりかねません。
 また第十九条(教育の振興に関する計画)において、教育に関する国と地方公共団体の「予算の確保及び充実」が盛り込まれていますが、これも「点検及び評価」に従って、市場主義的に配分されれば、学校間の格差を一層助長することになります。
 ④国、地方公共団体の長による教育内容支配
 教育行政については、与党案ですら残された「教育は、不当な支配に服することなく」という文言が削られています。政府・与党案では言葉だけは残っても意味が変わってしまうことを4・26声明で指摘しましたが、民主党案では文言そのものがまるごと削除されています。
 国は普通教育の「最終的な責任」(第七条)を有し、 「国政の中心に教育を据え」(前文)とあるように、教育振興基本計画等を通して、政府による「国策としての教育」が実施されることとなります。また第十八条では「地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行わなければならない」という新たな規定が設けられています。教育行政の独立性や合議制に基づく教育委員会制度が否定され、行政の長が直接、教育内容に介入する危険性があります。
 国家や行政の長による教育内容への介入が行われれば、現行法第十条で定められた教育行政の政治的中立性は完全に奪われてしまうでしょう。
⑤平和憲法との一体性の切断
 現行法の前文にある「真理と平和を希求し」の部分は、民主党案では「真理と正義を愛し」と変えられました。第一条(教育の目的)でも現行法にある「平和的な」という言葉が削除されています。
 前文の末尾には「日本国憲法の精神と新たな理念に基づく教育」を目指して「日本国教育基本法を制定する」とされ、「新たな理念」が書き加えられています。さらに、この民主党案の最後には、「教育基本法は、廃止する」と明記されています。これは「日本国憲法を確定」し、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と書かれた現行法前文の理念を完全に否定するものです。平和という言葉の削除と合わせて考えれば、ここで平和憲法との一体性が切断されています。
 以上のように民主党案は平和と個人の価値を理念とした教育基本法を廃止し、新国家主義・新自由主義という「新たな理念に基づく教育」を導入しようとするものです。政府・与党案同様、大きな問題があります。
 2006/6/2
「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」呼びかけ人
 大内裕和、小森陽一、高橋哲哉、三宅晶子

ところが、内容とは関係なく、出自を問うということはあるようで、自民党の鈴木恒夫議員は、日教組との癒着を指摘しています。

自民議員、民主と日教組の癒着問う 参院選“前哨戦”か
 30日の衆院教育基本法特別委員会で、自民党の鈴木恒夫氏から、基本法改正案をめぐる民主党とその有力な支持団体である日教組との癒着をただす質問が飛び出した。民主党側は「日教組には日教組の考え方がある。私どもは民主党だ」(鳩山由紀夫幹事長)と癒着を否定したが、来年の参院選に向けた自・民対決の“前哨戦”のようなムードが漂った。
 質疑で鈴木氏は、日教組の組合員が約30万3800人いて、日教組出身の参院議員が5人(うち民主党議員は輿石東参院議員会長ら4人)いることを指摘。その上で民主党の基本法改正案について「日教組幹部は『政府案を廃案にするための対策だと考える』と言っている」と述べ、民主党や日教組は同党案の成立を目指しているわけではなく、政府案つぶしのために対案を出しただけだと批判。これに対し、民主党案の提案者である笠浩史氏は「(民主党案は)いろんな意見も聞き、開かれた議論をしてまとめた」と反論した。

自民党が自党の案を廃して、民主党案でいこうと決めたとしたら、民主党はどう対応するんでしょうか?

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核保有議論と外交カード 

外交カードというのは、具体的、かつ、条件的なものです。具体性がない、条件のない外交カードなど存在しないも同じです。

問題を絞りましょう。一般論の外交カードなど話してもしょうがないので、核保有議論のカードに関して書いてみます。

まず、核保有議論であるのが、

1.日本国として、核を保有するという選択をするのか、選択をしないのか、これを議論

これは、お気づきのように、他国に対する外交カードにはなり得ません。これはあくまで国内政治カードでしかない。つまり、持つか持たないか、これは国内政治では具体性を持つように見受けられますが、対外的には、具体性はありません。核が存在するわけでもなく、存在させようとするのかどうかの条件付けですらありません。

2.日本国として、核保有をするという議論を封印する

これも、議論の封印ですから、他国にとってはなんら具体性も条件もないわけで、国内カードであっても、外交カードにはなりません。

3.日本国として、何故核を保有しないかの決断をする議論

これは、核を保有しないという具体性を持ったものです。そして、議論する場合には、どうして核保有をしないか、断念するかの、条件も出てきます。これこれこの条件において日本は核保有を断念する、という立派な外交カードになります。

4.日本国として、核を保有するという決断をする議論

これは3と同じで外交カードのように見受けられます。

しかし、

外交カードというのは、使える相手が必要という条件があります。現在の国際政治状況で、この核保有をする、という場合、核保有をしないという決断と違って、卵が先か鶏が先かで、北朝鮮と同様、核を保有しないとカードたり得ないわけです。核保有の潜在能力はあり、これこれこういう条件なら核保有に踏み切る、というカードでは、どの国家がそのカードの有効性を考慮するでしょうか?実際の物理的な核という物が存在しない時点に置いて。ですから、この4のカードも外交カードには使えないわけです。

さらに、この外交カードの中の『核カード』、国家において、使う相手も内容も違います。

例えば、パキスタンとインドの核カードの場合、対象国はこの2国だけ。中国に対してインドが核カードを使えるでしょうか?中国中央部まで到達する搬送手段のミサイルが存在しない状況で。パキスタンも同様です。イスラム国として、イスラエルに対してこのカードが使えるかどうか?搬送手段としてはインドと同じ事です。

では、イランが持った場合は?これは複数国に対して使えるわけです。つまり、最大の仮想敵国のイスラエルにも使えます。イスラム国家の友邦としてのパキスタンにも使えます。イスラム国家でありながらスンニ派で、親米国のサウジにもアラビア半島国家群にも使えます。

北朝鮮の場合は?これまた同じ話ですね。

では、日本の場合は?中国にも使えず、韓国はもちろん、ロシアにも使えません。圧倒的な核ミサイルで袋だたきになるだけです。

このカードが使えるのは、インドとパキスタンの場合と同じ、北朝鮮にだけ。これでは意味がないでしょう。アメリカを攻撃しないとしても、アメリカに核カードをちらつかせて、プレゼンスが高まるでしょうか?日米同盟に亀裂が走るだけです。

つまり、対費用効果から考えて、金のかからない外交カードとしては、3の

『日本国として、何故核を保有しないかの決断をする議論』

というものだけが可能性を持つ物だと、こう思いますが、いかが皆さん考えられますか?

マインドセットされた者の心理学(1) 

「正義」というメタファーは誤解が多い代物です。しかし、この題目は私にとってしばらく考えたいものです。「正義の側」の続きで、今度は「マインドセット」について考えていきたいと思います。

マインドセット」などと言うと、何だぁ?と思われるかもしれません。FRANK LLOYD語で意訳して、「意識固定」、「認識固定」、「言霊自動反応」などという意味でお考え頂ければいいと思います。或いは、「思考の型、考え方の枠にはまった知能」とでもいいましょうか。

マインドセット」は誰でも持っているものです。日本人として意識が固定されている、アメリカ人として意識が固定されている、国籍・文化・成長した土地・両親・友人、あらゆる要因のマインドセットが考えられます。

さて、

いつか、どの新聞か忘れましたが、その新聞の1面に、ある大学の数学の問題が紹介されていました。たった1問。円周率が"3.00"以上である事を証明せよ、という問題です。

おお、良い問題だな、と思いました。丸暗記した、定式化した問題ではなく、規定内の時間で、さまざまなアプローチで答えを出せる問題です。最近の日本の学校は、円周率を3.14ではなく、3で近似して教えるのだそうです。これは私の娘の通っているインターナショナルスクールでも同様です。これに関して、「ちゃんと(?)」3.14で教えないといけない、という意見も多いですが、私はそうは思いません。考え方の道筋さえ正しければ、3であろうと、3.1であろうと、3.14であろうと、小数点以下60桁まで教えようと、どうでも良い事です。

ただし、その考え方の道筋に行き着くためには、無限分割の話とか、円に内接する多角形、三角形の各辺の長さの導き方とか、定理、公理を理解して無くてはいけない。そして、定理・公理まで、自分で考えて発見せよ、というのは、学生個々がニュートンやアインシュタインではないので、まず不可能です。これは、丸暗記でいい。公理・定理がどう証明されたか、丸暗記してしまえ、できれば理解して、ということです。

これら、無限分割の話とか、円に内接する多角形、三角形の各辺の長さの導き方などの定理・公理がわかれば、この問題を解く事は応用問題ですね。ようするに、円に内接する多角形の外側の辺の長さの合計が、直径の3倍より多ければいいのですから、手っ取り早いのは円に内接する正八角形で証明すればいいでしょうか?他にもいろいろな答えがあります。私もいくつか考えようと思ってます。

マインドセットされていると、こういった問題を解く事は難しい。意識、認識が固定されていますから、3.14でいいじゃないか?なぜ、3以上なんて問われなければいけないのか?と、3.14で習った世代は考えるかもしれない。「円周率が3」と習った世代だと、これが丸暗記ではなく、考え方の筋道で習っているはずですので、日本の子供は知りませんが、私の娘は解けてしまう。こういった具合で、丸暗記には丸暗記の効用があり、考えさせる学習には考えさせる学習の効用があるのですが、いずれかにセットされると、丸暗記派か、或いは考える学習派か、とどちらかに偏ってしまいます。

マインドセットされた者の心理学(2) 

FI69431_0E.jpg中学校や高等学校で習う生物学で、必ず出てくるのが生命の樹のような系統樹とかピラミッド構造で頂点が人類になっている図です。例えば、この「系統樹」は、何を意味するのか?間違った印象を与えます。

ダーウィンは、適者生存とか適応放散・適応集中の話をしましたが、生命の系統樹を『種の起源』に図示したわけでもありません。滅びた種が優秀でないとは一言も述べていませんし、人類が適者生存の頂点に立っているとも述べていません。言っているのは逆の事で、人類とは神の似姿でも何でもなく、無尾猿類や有尾猿類、原猿などと共通の先祖を持つ(猿が人間の先祖、と認識されているとしたら間違いです)と、人類を神の高みから引きずり下ろしたのです。ましてや、生命のピラミッド構造などを考えたわけではありません。人類は生命界の頂点ではありません。

FI69431_1E.jpgこの生命の系統樹とか生命のピラミッド構造を中学・高校で刷り込まれるので、生命の進化に関して間違った認識を持ってしまいます。これはマインドセットの一種ですね。

正しい(と思われる)生命の世界のイメージとしては、ある価値の方向性を持った図ではありません。生命の進化図としてはタマネギ構造が最適でしょう。少なくとも時間という方向性と、種の多様化という方向性はありましたし、これからもあるでしょうから。

FI69431_2E.jpgタマネギの中心で原初の単細胞生物から始まって、次の皮では単細胞生物の皮の上にポツポツ多細胞生物が出て、さらに単細胞・多細胞生物のベースにポツポツ無脊椎動物が出て・・・というように、ベースである単細胞生物がいなくなることなく、皮がどんどん厚くなってくる、そして、今は、単細胞生物、多細胞生物、無脊椎が昔と変わらずそのままいて、脊椎動物の中にポツポツ人類もいる、とこういうのが実際の生命進化の姿でしょうね。

FI69431_3E.jpgつまり、バクテリアやウィルスってのがいつもベースになっているという事で、人間なんてたいした物でもなく、タマネギの一番外側の皮の表面に部分的に点在しているにすぎません。

ダーウィンの進化論は、ダーウィン自身が嫌っていたように進化=進歩ではありませんでした。それから、進化論=唯物論ですが、それを進化論=唯物論=唯物史観にこじつけようとしたマルクス・エンゲルスも大嫌いでしたね。

進歩というのは、

【進歩】よい(望ましい)方に次第に進んで行くこと。

なんて意味ですが、これは自然科学では何だぁ?の理論になります。誰が、何が望ましい方向に進める意志(意識)を持っているのだぁ?という事。自然科学は唯物観(唯物史観ではない!)ですので、そのような存在しない意志とか意識は認めませんね。物事は進みます。しかし、どこに進むのか、どのように進むのかなどは、偶発的要因に依ります。ましてや、それが、「良い」とか、「望ましい」などという曖昧な意味での価値基準で判定される方向に常に進むという理論を自然科学は絶対に受け入れません。社会科学なら別でしょうが。

日本では、「進歩」と「進化」で字が二字の言葉で、最初の漢字が同じというように似ていますから、ますます混同の度合いが高まります。英語では全然違いますね。

【進化】evolution
生物が何世代もかけて形態や機能の分化・変異の過程を積み重ねながら、より環境に適した状態になること。
【進歩】progress; (an) advance; (an) improvement
よい(望ましい)方に次第に進んで行くこと。
【evolution】展開, 発展, 進展

という意味もあります。元々はラテン語の「(巻物などを)開くこと」の意味からの言葉。
これまた、

【revolution】 (政治上の)革命、〔思想・行動・方法などにおける〕大変革、激変、革命

とスペリングが似ていますので、混同の度合いが高まりますが、【evolution】と【revolution】は語源も成り立ちも違う言葉ですから誤解のないように。

マルクスもエンゲルスもレーニンも、「唯物史観」という割には、人民なる階層をでっち上げて、それに人民の「意志」なる物を付随させて、全然唯「物」じゃなくて、唯物+人間の心の観念、なんじゃないの?と思ってしまいます。まあ、社会科学ですので、証明できませんし、言い出すのは自由ですね。

彼らは、本気で、共産主義、なるものを信じていて、資本主義とか社会主義とか、社会制度を進歩の階梯で一途づけて、共産主義が望むべき社会制度であるなどという理論にしましたが、やれやれ、なぜ、それが万民が望むべき社会制度なのか、彼らの著書ではあやふやですな。

みんな結果が平等というのは、望むべき社会体制なの?それって、貧者の論理、敗者の論理で、働かざる者も食わす論理ですねえ。それでは、その社会が死に絶えるかもしれない。そうなったら元も子もなくなりますが、その話には触れようとしないのが常ですね。

組合運動と同じです。組合運動にかまけて、ぶんどり合戦を演じたあげく、本業がおろそかになって、その会社が左前になるなんて、カルロス・ゴーンさんが来る前の日産と同じですね。結局フランスに身売りしちまいましたし。

【共産主義】
その社会の人たちが生産手段やそれと関連する社会的財産を共同で持つこと。基本的生産手段や財産の私有・世襲を否認し、階級や搾取の無い社会の実現のためにプロレタリア階級を解放しようとする主義。マルクス レーニン主義はその一つ。コミュニズム。

「階級や搾取の無い社会」を成立させるためには、階級をなくさなければいけませんが、それは個々人の違いをなくせ、と同じ事。不可能ですね。搾取は、階級差の低い階層から高い階層が利益を吸い上げる事ですが、階級差が固定されていた時代のマルクスやレーニンなら主張する必要もあったかもしれませんが、階級差の流動が可能な現代にマルクス・レーニンが生きていたらなんと言った事か。

「階級や搾取を気にしない社会」はできそうですね。「階級や搾取の無い社会」は不可能でしょうな。

マインドセットされた者の心理学(3) 

ゲーデルの不完全性定理
■ゲーデルの不完全性定理は、数学基礎論における重要な定理の一つで、クルト・ゲーデルが1931年に発表した。

【第1不完全性定理】
●自然数論を含む公理系が、無矛盾であれば、内容的には真であるが、証明できない命題が存在する。
【第2不完全性定理】
●自然数論を含む公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。なお、第1不完全性定理の拡張として、証明も反証もできない命題の存在はロッサー (1936) によって示された。また、第2不完全性定理に関して、ロッサーによる証明の定義を用いれば、体系自身の無矛盾性が証明できることが、クライゼル (1960) によって指摘されている。

これは何か?物理学を学んだだけですので、数学はおそろしい。数学者は物理学者と違って天空に住む者です。これは何だぁ?

これはですな、

「閉じた論理体系はそれ自身が内包する定理を証明できない」

ということです。数学の定理を社会学や心理学に当てはめるのは無理があると思いますが、あえて当てはめれば、

●正義と自己規定してしまった閉じた論理体系では、それ自身が内包する問題の証明ができない

と言えるのではないかと。これは「正義」を「マインドセット」と言い換えてもよろしい。

マインドセットされた閉じた論理体系では、それ自身が内包する問題の証明ができない

外部からのフィードバックや相互作用がなく、自由な状態でない、ただ単に何かに「マインドセット」した状態では、その状態が正か負か、判定ができません、と言えるのではないか?

現実から主張者(マインドセットされた者)にとって好ましい将来への連続体を現世の言葉で明記する思考方法を正しい議論とし、それに反するものを

「正義の側に立つ者 」
=「マインドセットされた者」
=「意識固定」「認識固定」「言霊自動反応」

とした人間は、その自己矛盾を証明できない、だから、「正義」を証明できないのだから、「正義」の主張は無意味である、という事です。

もちろん、ゲーデルの定理がそのまま当てはまるとは思いませんが、どうも、私にはそう思えるのです。

マルクス・レーニン主義、或いは共産主義思想は、プロレタリアアートという閉じた系でしか考えられない、搾取者と被搾取者という閉じた系でしか考えられないので、その内包する定理=正義は証明できない、と言えるのかもしれません。

マインドセットされた者の心理学(6) 

司馬遼太郎の「坂の上の雲二(文庫版)」の26ページに、「日清戦争とは、なにか?」という記述があります。その中で、

国家像や人間像を善玉とか悪玉とかいう、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしまもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるように思える。

他の科学に、悪玉とか善玉とかいうようなわけかたはない。たとえば、水素は悪玉で酸素は善玉あるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に善玉と悪玉とわける地点から成立してゆくというところにある。

と述べています。これは、明確に記述するのを司馬遼太郎は避けたわけです。なにせ、「坂の上の雲」が産経新聞の夕刊に連載されはじめたのが昭和43年(1968年)。70年安保の2年前。ハッキリとこの、

ある種の歴史科学」 = 「唯物史観

なんて書こうものなら、あの左翼全盛時代ですから何を言われたかわからなかったでしょうね。恐ろしい。

現在は良いのですよ。そういうくだらん左翼はプロ市民とか社民党とか共産党とか、民主党の一部という着ぐるみで細々と生きているだけです。もう何の力もありません。

司馬遼太郎が言っているように、科学に善も悪もありません。善とか悪があるのは宗教の世界です。え?善玉ホルモンとか悪玉ホルモンとか生物学では言っているって?そりゃあ、生物学ではなく、家庭の医学のレベルでしょう?生物学の記述では、あくまで、あるホルモンは老化を抑制する効果があるとか、あるホルモンは癌を誘発する効果があるとか述べているに過ぎません。

マインドセットされた者の心理学(7) 

日本の某県で選挙速報に従事されていたヒダリの女性の嘆きがある所に掲載されていました。

 ・・・(略)・・・

午前1時30分にようやく投票数が確定されたというアナウンスが流れて、家に帰ったのは午前3時をまわっていた。9時から開票が始まって、大きな体育館で30分ごとくらいに選挙区と比例区の得票数がプリントされて、報道各社の席に配られます。それを新聞社の支局宛にiモードで送信して本社のデータベースに送信するのが私の仕事です。

 ・・・(略)・・・

朝日新聞記者と一緒にそれぞれ送信しているので、「自民党 単独で過半数、ほぼ確定」という話を送っているのがもう11時頃には聞こえてきました。笑顔の小泉首相が一面を飾った明日の新聞紙面が目に浮かんでどっと疲れが出てきました。もう日本はおしまいだ、と絶望感がこみあげました。

もう日本はおしまいだ

過度の危機意識というのは妄想を産みやすいものです。家庭に対する危機意識で、子供が両親を刺殺することがあります。会社の社長が危機意識のために自殺することがあります。危機意識をバネにその危機を打開出来る人と打開出来ない人がいます。その境目は、危機意識が過度に働いて、その他の打開策が見いだせなくなった時です。

危機意識の中で最も危険な物。それは憂国的感情でしょう。子供の家庭に対する危機意識は家庭の崩壊程度で済みます。社長の自殺は会社の破産だけで済みます。しかし、憂国的感情の危機意識が過剰に働いた場合、それは国家の崩壊を意味する場合があります。

過度の憂国的感情を抱いて、それを行動に移してしまう人は思想的狂人でしょう。過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい。

個人で活動しているのならそれはまだ、「もう日本はおしまいだ」という嘆息程度で済みますが、それが組織だって動くとなると、乏しい知識と良識が集団という勇気を与えてくれるものによって吹き飛んで、論理を飛躍させ、行動で自分の情念を表現しようとします。

彼女は妄想したのでしょう ─── 今回の衆議院選挙における自民党の圧勝は、憲法9条を抹殺し、自衛隊の海外派遣を合法化し、戦争が出来る日本国家を形成する第一歩である ─── これは彼女だけの妄想ではありません。日刊ゲンダイなどのイエローペーパーが盛んに煽り立てている妄想を一部で真剣に信じる人達がいます。

 自衛隊はもどれない。
 9条はどうなるのか
 米軍基地は減らない
 アジアの国と仲良くできるのか?

 ・・・(略)・・・

日本が占領していた、朝鮮半島から動員されて、炭坑などで過酷な労働を強制されたり(318、546)、各地の工場でただ同然で働かされて、多くの人が死んでいった。日本人で同じ仕事をしていた人の2倍も死者がいた。厚生省に把握されている人数が667、684人。

最初は日本で働いた方が良い収入が得られるといった言葉に騙されて自らきた人たちも、いたそうですが(1939年ごろ)、1944からは無理矢理つれてこられる人が大部分になっていったという話を聞きに行ってから仕事に行ったのです。朝鮮半島内で無理矢理働かされていたひとが409、929人、慰安婦にされた人数は10万とも20万1千。(「従軍慰安婦資料集」大月書店1992年)

家が貧しい少女たちに、工場で働いて、学校にも通える。という就業詐欺のかたちで行われて、男尊女卑で、男の子さえなかなか学校に通えないましてや女なんてと親に言われていた貧しい農村部の少女達が狙われたのだそうです。小学5、6年生からそれよりちょっとうえくらいの少女達が。騙されてついていった。

 ・・・(略)・・・

それなのに経済以外の協力はするつもりもない。そして、経済制裁をしろという日本人。それなら、どこでどうして死んだのか、連行された方々の遺族に知ってるだけでも教えないのでしょう。厚生労働省にはすべてではないけれど亡くなられた方の資料が残っていて、遺族の方が希望すれば、調べられる方もいるのだそうです。

北朝鮮の脅威を言う前に真実を教科書に載せて欲しい。

がっくりして力が出ない、●×▼子でした。

突然、彼女の妄想は日本の朝鮮の植民地経営の過去に飛びます。とりとめがない。しかし、これも過度の憂国的感情のなせる技だとすると良く理解出来ます。心優しい人なのでしょうが、過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい。

こういう方々を単に左翼、サヨク、左、ヒダリと呼ぶのは適切ではないですね。

戦後のアメリカの占領により、日本にアメリカのリベラリズムが大量に出回りました。で、アメリカのリベラリズムというのは端的に言うと、「弱者に味方するお節介」ということです。それに、GHQが後押しした共産主義・社会主義思想が流入して、それらが渾然一体となったのが日本の大衆的左翼的雰囲気だと思います。

その大衆的左翼的雰囲気の中で、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい人が集団のプロパガンダに乗せられると、60年・70年の安保騒動のようなことになりますし、それらの形骸が未だに現在のプロ市民の形で残っています。

北朝鮮の脅威を言う前に真実を教科書に載せて欲しい。

過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しいので、視野狭窄を起こしているようです。

自分が知っている、と言っても単に「従軍慰安婦資料集」(大月書店1992年)という本で読んだだけの知識で、その数字だけを書き上げて、それを小中学校の教科書に載せろと主張しています。それが「真実」と言っていますが、何が真実なのか?というのを理解しているのか?歴史という文脈の中で何をこの事実(真実などありませんね)が語るのか?その前の歴史的事実、さらに前の歴史的事実、その前の。。。と連綿とした流れを教えずして、これらの事実だけを抜き取って教えて、さて子供にどのような影響が出るのか?知識と良識が極めて乏しいので全く解っていないようですね。

別の憂国の士の発言で、

> 息子はおれらが戦争にいくかもしれないのに
> なんで選挙権ないの?不公平だ。と言いました。

ほんっとに、そうだと思います。息子さん、えらいっ!

> アメリカでは16歳で車の免許を取れるとか
> だったら選挙権もくれたっていいんじゃないでしょうか。

あのね、たしかブラジルの人が、ブラジルでは義務化されていて選挙権は18歳以上だけど、申請すれば(希望者は)16歳から投票できる、と言ってました。

という微笑ましい発言も見られます。親が3人組的だと、子供も本気で自民党圧勝で「おれらが戦争にいくかもしれないのになんで選挙権ないの?不公平だ」などという考えになってしまうのでしょうね。

自民党が勝つと、徴兵制度が復活し、日本は軍国主義の道を再びたどる

そう親が子供に教えているのでしょう。

過度の憂国的感情を抱いて、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しく、それを行動に移してしまう人

それは左翼的傾向のある人。。。いやいや、本当の左翼思想人に失礼ですね。言い換えましょう。

この思想行動、言ってみれば思想的狂人は、3人組的思想傾向の人に限りません。過去にもいたじゃないですか?ただ、違いは、プロ市民組織、3人組はなんらの力もなかっただけで、もしも、軍事力とか政治的ポジションという武器を持てば同じことをした過去の人間達が。 ─── 515事件と226事件の青年将校共ですよ。それから、ゾルゲ事件で日本国を売った売国奴の尾崎秀実などもそうですね。コミンテルンを信じて、満州経営だけで満足していた日本国に、北への侵略の恐怖から、南方経営とアメリカへの宣戦布告を内閣に吹き込んだ馬鹿者。同じ類の人間です。

極右も極左も、この点に関しては変わりがありませんね。だから、左翼と右翼は対置関係にあるのではなく、同根異幹であるのではないかなと。

正義の側に立つ者の心理学(1) 

正義、大義、と使われてますが、どうも字が違うのではないかと思います。

正義
1.道理にかなっていて、 正しいこと。

【大義】
1.人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道。
2.国家・君主に対する忠誠

「このイラク戦争に正義はあるのか?」

とか、

「このイラク戦争に大義はあるのか?」

というのは、

「このイラク戦争に道理にかなっていて正しいことはあるのか?」

とか、

「このイラク戦争に人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道はあるのか?」

と問うていることです。

が、

この正義とか大義とかは、人間個人の生き方で主張するもので、さて、国家と国家の問題で、「道理にかなっていて」や「人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道」などと言うことが問えるのか?と思います。

国家というのは、化け物みたいなものです。操縦する人間によっても(ヒトラーのように)、構成する国民の偏差によっても(昭和の初めの戦勝提灯行列の日本人のように)、どこへ行くのかわからない、操縦しがたい物です。これに対して、正義だ、大義だ、と人格のある物のように言ってもしょうがないことです。こんな正義だ、Justiceだ、大義だ、 The Noble Cause of Peaceだ、などと言っても、仕方がないでしょう。

国家に人格はありません。これを使い出したのは誰だったのか?海外では、アメリカの反戦主義者が使い出したのでしょうか?それともブッシュ陣営なのか?日本では、菅民主党党首だったような気がします。

日本人が正義とか大義とかを言う時は、大義名分、という言葉になるのかな?

「大義名分」だと、どうもテレビの水戸黄門の悪玉が、正体の知れていない水戸黄門に、「お上の意を受けての大義名分がござる」と言うみたいに、ネガティブな、言い訳めいたイメージがあったのでしょうね。大義という言葉が使えるとして、現代の大義というのは、「全人類が納得できる物」なんでしょうな。それを「新秩序」なんて事で、有史以来、勝者が敗者に対して打ち立ててきたのが、大義。やはり、事前に使う言葉ではなく、領地、政治体制、富などが戦争などで変更されて、その事後に勝者によって使われるのが大義の通例だったようですね。

そう考えると、第2次対戦には負け、戦後60年経っても、戦後大義の大本の国連での敵国条項は削除されず、安全保障理事会常任理事にもなれず、国に政治力もなく、圧倒的な経済力も失って、多くの国民はひとつの言語しか解せず、他国の事情などマスコミによるしか理解できない、こういう日本国なるものは、大義を叫ぶにはあまりに弱々しい。せめて、大義名分を国連に付けてもらうのが関の山、でしょうな。

第2次対戦前は、連戦連勝、勝者の大義がありましたが、戦争に負け、東京裁判で全否定され、もう、大義のよりどころとしては、アメリカ他戦勝国が設立した国際連合(United Nations:連合国、連合国家群)しか残っていない、という情けない現状です。

日本のような負け組が大義だ、大義だ、と言っても誰も聞く国、聞く国民はいないでしょう。日本国民以外には。これは、次に何か起こるまで、そして、そのときに勝ち組になるまで、「国家間の」大義なんて言葉を使わないで、冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求するほかないでしょうな。

大義だ、なんて事を叫んだところで、大義を具現する、新しい秩序を打ち立てられる「力」は日本国にないのですから。力とは、軍事力でもいいですし、政治力でも経済力でもいいですが。

その政治力がないとかで、政治家とか官僚を責めるのはお門違いというものです。政治家、官僚といっても、日本国民に代わりはないのですから。彼らに力がないと言うことは、国民の能力がない、ということ。つまり、彼ら、政治家・官僚は、日本国民から抽出された人間なのですからね。

じゃあ、どうするんだって?

テレビの水戸黄門じゃあるまいし、いつまでも善玉、悪玉論争をしていないで、冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求する行動するだけ。善玉、悪玉の2元論をいつまで言っていてもどうしようもない。一歩一歩が具体的で実際的なことをするほかはありません。難しい行動ですが、水戸黄門的善玉・悪玉2元論を忘れて、国民が努力する他ありませんな。

正義の側に立つ者の心理学(2) 

冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求する行動するだけ、なんて合理的なことが日本国民にできるか、というと、これまた難しい。人間にはカタルシス*が必要だってんで、戦敗国コンプレックスと個人的コンプレックスを解消するために、どうも「正義の側」につきたがるんですな。

正義の側についていれば、気持ちはいいし、カタルシスにはなる。俺は、私は、正しい側だよ、ってんで、安心できてしまう。しかし、正義の確立、大義の確立をするには、何か行動しなければいけません。しかし、それもかったるい、何も行動しないで、正義の側についたというカタルシスを味わえる方法はないものか?というので、レーニンなどが考えついたのが、強いものを攻撃することでした。

これはうまくいきますね。弱い側の人間に限って、コンプレックスはわんさか存在するし、弱いって事は正義で、強いって事は悪で、貧乏人は清貧にして清潔、金持ちは、搾取しているから越後屋だ、絶対悪だよ、という具合です。おまけに、弱きを助け強きをくじく、楠木正成、というわけで日本人が好むパターンですね。もう一つ好きな判官贔屓にもなります。

これって、判断保留、自分で考えなくって良い、アメリカ=悪、ブッシュ=悪、ネオコン=悪、た~んじゅ~ん!私は、善、正義の側、深く考える必要もない、何もする必要もない、というわけです。

それでいいの?それって、正義の側(と自分で思っている方)を支持しているってだけで、自分が正義に基づいて行動している、というわけではありません。でも、正義の味方っぽい気にはなります。

アメリカの誰それも言っている、というのは、アメリカ人が自己批判しているのであって、その論法を日本人が使う、というのはいいのかなあ。アメリカは少なくとも日本と違って、自己批判して、変わっている国です。それを進歩とは言いませんが、少数民族の問題にしても、世界の面倒を見る(それが相手にとって見れば間違って見えようと)という大局に見たがる国で、その国の人間が自分の国を論評したからと言って、その論理が日本人も使えるというわけでもないのではと。

だぁから、時事社会問題「言霊」辞典みたいな考え方、言い方、評論家になってしまうのでしょうな。やれやれ。でも、その判断保留。正義の側に立っているので前文の理由は不要。その理由は聞く「べき」ではない。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。というのは楽だろうなあ。

正義はひとつではなく、ある正義は絶対ではない。その時点の正義が将来の禍になることもある。そして、有史以来、現在まで、正義は勝者の専売特許、敗軍の将兵を語らず、ということですな。有史以来のこの事実、さてさて、いま変えることができるでしょうか?

*自己の直面する苦悩などを表出することによってコンプレックスを解消すること。

正義の側に立つ者の心理学(3) 

日本国の憲法では、3権分立が唱えられています。

立法権、行政権、司法権。

【立法権】
○法を制定する国家の権能。〔立法の手続きは国会が行う〕 ⇒司法権・行政権

【行政権】
○行政を行う権能。 ⇒司法権・立法権

【司法権】
○国家の名において行う、民事・刑事上の裁判権。⇒行政権・立法権
正義の側に立つ者」は、それが左翼的傾向にある人でも、右翼的傾向にある

人でも、司法的傾向が強い方がそうなってしまうようです。

正義の裁き】
○「正義の名において行う、裁きの権利」

とでも言うのでしょうか?

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正義の側に立つ者の心理学(4) 

社民党、共産党が衰退した原因は、本来なら政治政党で、立法・行政の担い手の集団であるはずの組織が、立法・行政よりも、司法の権能、それも、こともあろうに日本国の法に従うのではなく、「正義の裁き」に重きを置いて活動している、その活動に重点を置いているからだとも考えられます。

もちろん、与党の政策に対して立法府で反対する、討論・議論することは、立法の役割です。与党の政策に対して、政策を持って反対するなら、それは立法の場での政治政党の権利の行使であるといえます。しかし、自分の党の政策を示さずに反対というのでは、支持もさがると言えましょう。

例えば、社民党で言えば「護憲」というのが政策だと言われていますが、「護憲」は政策ではありません。日本国憲法に「護憲」という項目はありません。憲法自体には、憲法は国会議員の3分の2の賛成と国民の2分の1の賛成があれば変更が可能だという「改憲」可能な考えを示しています。

では、「護憲」が政策ではないならば、「護憲」とは何なのでしょうか?「護憲」は目標なのでしょうか?目標というと、未来永劫にわたりこの現行憲法を堅持する、という目標なのでしょうか?日本国の状態が、現行憲法が制定された五十数年前の状態から大きく変化しても、世界情勢が大きく変化しても、絶対変更しない、そのような目標が存在するのでしょうか?

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正義の側に立つ者の心理学(5) 

「護憲」というだけでは政策たり得ません。それだけを行っている政党は、立法・行政の役目を果たしていませんから、政党とは言えなくなります。それが、社民党・共産党の衰退の一因と考えます。

「護憲」を行っているだけでは、これは立法・行政の人員を輩出する政党たり得ません。単なる裁きの政党、「自党の主張において行う、裁きだけの政党」に陥ってしまいます。

もちろん、社民党・共産党は「護憲」だけをあげているのではありません。与党や社民党の政策に対抗する政策も提示しています。しかし、マスコミがこの2党に関して取り上げるのは、ほとんど「護憲」に関しての報道です。これはマスコミの取り上げ方が悪いのも一因でしょうが、「護憲」をとりわけ言いつのるこの2党の党運営の欠陥でもあります。

一端「護憲」の錦の御旗を半旗に下ろし、その他の実際的な立法・行政に関わる事柄を全面にあげる、これがこの2党が支持を得る近道でしょう。評論家は予言ができますが、予言・予測の類では、国・組織は運営できません。裁きの声を高らかに上げ続けるだけでは問題は解決しません。

裁きの側に立つのなら、戦後すぐの頃、配給食だけを食べ、ヤミの食料に手を付けずに餓死した裁判官のように、身を清廉潔白にしなければ、裁かれる方が文句を言うでしょう。

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正義の側に立つ者の心理学(6) 

1998年から不思議なことが起こり始めました。1998年以前は2万2千人代だった年間自殺者の数が突如3万3千人になり、以後高止まりをしています。

経済は、その頃からデフレの動きが顕著となり、それ以前から薄々と感じられていた右肩上がりの経済の崩壊が明らかになってきました。戦後日本の学卒-就職システム、いわゆるパイプラインシステムに亀裂が生じ、大学を卒業しても就職の保証はなく、就職しても昇給・昇進の保証はなく、雇用の保障もなくなりつつあります。

大量生産・大量消費型のオールドエコノミーは、他の人間と同じ事をこつこつ毎日やっていれば、パイプラインにのって昇進昇級が保証され、退職金が支払われ、退職後の企業年金が受け取れました。それが90年代を通して、徐々にアメリカ型の能力給制度など、個々人の能力次第ではいくらでも給与アップ、スキルアップできるという、聞こえはいいですが、用意ドンで、みんな同じスピードで出世し、定期ベースアップするという制度が崩れてきました。アメリカでは、クリントンがニューエコノミーの勝利、不況なき経済を誇っている頃でした。

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正義の側に立つ者の心理学(7) 

なぜ、テロリズムを撲滅しなければならないのでしょうか?戦争もしかりですが、戦争の前にテロリズムを撲滅する必要がありそうです。

テロリズムは、必ず、何かの名において自己正当化し、闘争という名の下に非戦闘員まで巻き添えにする暴力行為を行うものですが、国家間の戦争はその当事国の政府・国民のエゴが入るとはいえ、テロリズムよりもはるかにコンセンサスは取れているのでしょうね。

戦争も、非戦闘員を巻き添えにします。しかし、建前として国家の威信なるものがかかっています。そうそう無差別攻撃ができるものではありません。ところが、テロ行為は何かの名において自己正当化しますが、その実態は国家という認知された存在と違い、国際合意の水面下に潜む物です。自己正当化しても、その存在が認知されたものではありません。「威信」「体面」がない存在ですから、非戦闘員も巻き添えにした無差別攻撃が平気でできるわけです。

おまけに、資金力さえあれば、「~の名において」という名乗りは自由で手続きなく宣言さえすればいい。誰でも彼でもやる気にさえなればできてしまう。そして、自己正当化されているわけですから、目的のためには手段を選ばず、ということとなります。

過去、以下のような宣言をして、無差別テロを繰り広げた組織が数多くありました。

★世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。
★世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等なイスラム社会を築くための闘争である。
★チェチェンをロシアの帝国主義な抑圧から解放し、平和で平等な民族主義社会を築くための闘争である。
★北朝鮮をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。
★・・・

何でもいいわけです。「~の(強者の)抑圧から解放し、平和で平等な~の社会を築くためには」何をやっても許される、それが、女、子供、老人などの非戦闘員、文民を巻き添えにしたとしても、ということです。

これらの闘争で言えるのは、「平和で平等な○○」のビジョンは曖昧模糊、まずは倒すのが先決、ということ。

本来なら「平和で平等な○○」はこういうものだ、○○を築くためには××する必要がある。「~」の規則・主張はこれらの事をするには適した考えだ。相対する「アメリカの民主主義」とか「ロシアの帝国主義」はこの運動を阻止する存在だ。だから、「~の名の下に」××したいが賛同できるか?賛同してそれが多数ならばその方針でやりましょう。という手順を踏むのが順当でしょう。

「平和で平等な○○」はこういうものだ、というビジョンは後回し、という事です。まずは「~の名の下に」憎むべき相手を倒すのが先決。ビジョンの提示、というかビジョンがないまま、倒すためだけに「~の名の下に」を利用する、という事ですね。これは、「本末転倒」はないですか?

こういった「正義の側に立つ者」に限ってビジョンという具体的な肉付けができる能力に欠けるので、抽象的にアジテーションするしかない、という事なのでしょう。才能のない者の努力は虚しい。

この闘争だけなら、闘争地帯の人間が殺傷されるだけです。しかし、過去例があったように、必ずテロリスト達は、相対峙して反目しあう組織を担ぎ出します。

冷戦時代に、アメリカとソ連が対峙し、自己の勢力伸長をはかっていました。そこに、アメリカそのもの、ソ連そのものと関係ない組織、第3者、第3国であるテロ組織やテロ国家が、「世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。」と称してテロ活動をする。そうすると、冷戦時代にアメリカは、そういったテロ活動の背後にソ連がいるという疑心暗鬼に陥りました。

逆の話で、民主闘争が共産主義国家内で行われる時、ソ連はアメリカが背後にいるという疑いを持ちました。第3者、第3国であるテロ組織やテロ国家は、アメリカ、或いはソ連という国家を利用して、実は自分らの自己正当化の目標を遂げたい、というただそれだけのためにテロを仕掛けているだけです。

しかし、アメリカ、ソ連は、それを相手が背後にいて仕掛けたものと勘違いします。もちろん、本当に背後にいたケースも多々あります。

幸いにもエスカレーションは阻止できましたが、阻止できなかった場合、それが第3次世界大戦にエスカレートした危険は存在しました。第1次世界大戦の勃発が、オーストラリア皇太子の暗殺というテロ行為から始まったのが良い例です。

つまり、テロ行為がテロ行為として地域限定であれば、他地域の人間は他人事で済みますが、得てしてテロ行為は、波及効果で、「~の名の下に」という「~」に所属している国家を巻き添えにして、その相対峙する国家との闘争、それも今度は、名乗りを上げた「戦争」にエスカレーションします。

テロはそういったエスカレーションの可能性を持った行為です。戦争もしかりですが、戦争の前にテロリズムを撲滅する必要がありそうです、というのは、こういうわけです。

例えば、

★日本に真の国民主権社会を築くために天皇制を打破しよう。

なんて、「日本国民の名の下に~しよう」などという主張は、これだってテロ行為に近いですね。

日本国民という曖昧模糊とした存在(逆に曖昧模糊とした存在の方が利用しやすい?)を利用して自己の目的を達したいのですから。自己の主張する国民主権社会が、現行のシステムよりも優れている、国民の多数にメリットがある、というのならば、まずその定義、ビジョンを明確にして、現行のシステムよりもメリットがある、というのを明確にする必要があります。

その上で、天皇象徴制度のデメリットを述べ、それをもって、選挙という正規の手続きを踏めばよろしい。それとも、それが説明できない、多数派を形成できる自信がないので犬の遠吠えを繰り返しているのでしょうか?

この主張をテロ行為でなくすためには、正規の選挙手続きを経て、政権を担い、多数派を形成し、国会議員の2分の1を掌握し、国民の2分の1が賛成するように憲法を改正し、その上で天皇制を廃止すればよろしい。

その手前はおろか、国民の合意を受けない少数意見(国民の半分以上が天皇制廃止と言ってない以上少数意見ですね)の状態で、「日本国民の名の下に~しよう」など主張する事は許されません。

何かの権威を、抽象的な曖昧模糊とした存在を利用して、正義の名の下に、自己主張を遂げる行為をするなどといった事は、これはテロ行為と同様な事です。

劣化ウラン使用という名の下に、アメリカの現政権を非難するとか、イラク派遣の名の下に、日本の現政権を非難する、というのもトリッキーな行為です。

劣化ウラン使用は、劣化ウラン使用として判定する、イラク派遣はイラク派遣として判定する。その判定の元に対抗案を具体的に主張し、そして、アメリカの現政権が間違っている、政権の名に値しない、同様に、小泉政権が間違っている、アメリカ追随だ、というなら、正規の選挙手続きでその政権を倒せばよろしい。

なんでもかんでも、自分の主張に結びつけようという行為は危険です。違憲だ、違憲だ、というのも、憲法の名の下に主張しているだけですね。違憲の証明をする説明、行為、提訴をしないで、違憲も糞もあったものじゃない。

手順を踏んで違憲証明を行うのが、それこそ憲法という原則に書いてある事ではないですかね?違憲だ、などと証明(判決)抜きで主張する行為こそ、エホバが「神の名をみだりに使うべからず」と言った事の轍を踏んでいる。何かに名を借りて、何かを非難する、行動を正当化する、というのは、こんな危うさを秘めているものではないでしょうか。

正義の側に立つ者の心理学(8) 

私が大学生であった1980年代前半に、ネットの世界があったなら、ネットの世界は発言する大学生、高校生であふれかえっていたことでしょう。1970年代でも同じ事が起こったと思います。

今見回すに、MLなどの討論形式の世界は、20代は数えるほど、30代、40代が中心になっているのでしょうか?50、60代の方もおられますね。ところがネットに接続する世代構成としては20代や30代前半が多いのでしょうか?

MLなどの世界で、比較的世代構成が若いたぐいのMLはというと、組織力の力なのでしょうか、左翼系のMLは20代が多く見受けられます。もちろん左翼系ですから(右翼系でも話は同じですが)、「正義の側に立つ者」の心理を惜しみなく発揮しています。これは宗教系MLなどでも同じ事なのですが、宗教の場合、極めて個人的なことを、科学論理ではない普遍の物に昇華するのが目的です。「正義の側に立つ者」というか、「神の側に立つ者」になりたい、或いは「神の側に立つ者」になっている者の討論の場所であり、討議の内容も、個人的な話であっていいわけです。

しかし、社会活動を行う左翼系、或いは右翼系MLに、宗教系のような形態が導入されてうまくいくはずはありません。個人の話ではなく、社会活動の話をするのが目的ですから、そこには普遍性も絶対性もないはずです。無謬の存在もなく、社会の流れに沿って、議論の流れも活動の流れも変わってくるのが本来の姿です。

ところが、そうはなっておりません。社会への鬱屈、不満が、アメリカの現政権、イラク問題、日本の現政権である小泉政権に向けられ、それらの意見の大半は、策を建てる、策を練る、策を実行するのではなく、今施行されつつある政策を批判することに向けられている。評論の類でしかない。実行することは唯一デモ行進のようです。

これは、もしかすると個人的なカタルシスを代償する行為なのかもしれません。本来は宗教に向かうべき悩みが、反戦運動なり、反米運動に向かう。左翼系組織としても、そういった人間でも支持者、義援者になるのですから、取り込まないといけない。しかし、事実は、社会の話ではなく、個人のカタルシスにしかすぎない。

過去、カタルシスが存在するとき、それは、社会的な競争にそのエネルギーが向ゥいましたが、運動会で順位すら付けない社会に陥り、競争は悪であり、平和が善でなってしまった。成功者は羨むべき存在、到達すべき目標ではなく、「収奪」などのを行う「絶対悪」の存在と規定されます。そして、自分が社会的弱者であるのは、個人的な理由ではなく、社会の構造的理由が原因だとなる。

そうすると、個人的なカタルシスであるにも関わらず、社会的な原因も包含すると誤解しているわけですから、宗教に向かわず、社会的な行為、それも「正義の側に立ちたい」側にエネルギーが向かってしまうのではないかと。

日本が競争社会であったのは過去のことのようです。現代の若者はは、少数のマニュアルを作るグループと、大多数のマニュアルに従うグループに2極分化しています。フリーターというように夢は見続けているようですが、大多数の夢が実現するような社会であるとは思えません。後者は、競争のとば口で端から諦めているような気がします。前世代である我々は、現世代を生み出したことに鬱々としているのかもしれません。これはまだ序の口なのでしょうか?

時事社会問題「言霊」辞典1 

マスコミ語小(笑)辞典」というサイトがあります。皮肉たっぷりで、面白いので、通して読んでしまいました。私も「時事社会問題『言霊辞典」を作ってみました。日本国民はTVの「水戸黄門」の見過ぎでしょうか?世の中には、「善玉」と「悪玉」しかいないようです。

◆「~すべき」
考えるべき、やるべき、などの断定表現。前文に理由があり、その後に使う「べき」用法だが、正義の側に立っているので前文の理由は不要。その理由は聞く「べき」ではない。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。
◆「~でなければならない」
正義の側に立ち、現在の状態に不満を持っている様子。前文に理由がある「べき」だが、しばしば理由は省かれる。正義の側に立っているのだから自明の理、ということでしょうか?主語は省かれる。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。
◆「何々に書いてありました」
あたかもその本の主張が正しいかのような誤解を持たせる引用語法。自分の主張が言葉足らず、勉強不足の時にしばしば用いられる。その後に権威付けの「何々主幹を務められておられます」などという文がつく。もちろん、反動側の人間はまれである。
◆「~していきましょう」
一緒に何かやる、というのが本来の使い方だが、行動が伴わない語法の一つ。主語を伴わないで用いられることが多い。新婚家庭からの葉書に「お近くにお越しの節は是非お寄りください」と書いてあっても、本当にその家に寄ってはいけません。「~していきましょう」と言われても、本当に「~して」はいけません。言っている本人は行動に移すつもりはありません。修辞語。
◆「~させましょう」
誰かに何かさせよう、というのが本来の使い方だが、行動が伴わない語法の一つ。誰が主体なの?「~していきましょう」と同じ。ファイト!などのかけ声の一種と思った方がよい。
◆「ドロ沼」
あたかもずるずる行ってしまうさま。将来のその出来事は暗いと主張したいときに使う用法。が、予想になっておらず、予言の類が多い。定性的な語法。

時事社会問題「言霊」辞典2 

◆「弱者」
もう文句なく助けなければいけない対象。涙を誘う存在。定義はなく、抽象的な存在と思われる。「妖精」と同じで、存在が疑われる。
◆「イラク」
湾岸戦争前までは、ただ石油がでる国、とだけ日本人に認識されていた国。アメリカが関与した途端急に注目を浴びるが、いかんせん、勉強不足で、現在、どんな国なんだぁ?と学習中。学習中なのだが、「イラク」そのものを知らないでの発言は多い。
◆「トルクメニスタン」
まだアメリカが直接関与していないので、ヒダリのプロが、「ああ、例のアフガンパイプライン計画」と思いだし、「アフガン戦争」+「アメリカの利権」と結びつける国。実際は、独裁国家なのだが、「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「チェチェン」
ロシアの関与が主体で「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「アゼルバイジャン」
ロシアの関与が主体で「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「シエラレオネ」
「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「ネオコン」
プロレスで言う悪玉。「新保守」よりも「ネオコン」の方が悪のイメージが強いので使われる。力道山のプロレスショーで、カタカナの外人レスラーが「悪玉」、漢字名の日本人レスラーが「善玉」と売り出した時からの名残。
◆「ブッシュ」
プロレスで言う悪玉。石油利権の巨頭(?)それほど金に困っているらしい。しかし、アメリカの大統領は名誉職で金のあるヤツしかなり手がなく、日本国首相より手取りが少ないことは誰も言いたがらない。
◆「アメリカ」
プロレスで言う悪玉。冷戦時代は善玉と考えていた人もいる。冷戦時代から現在まで続けて悪玉と考えている人は、ヒダリっぽいので要注意。アメリカといっても、合衆国で、合州国ですから、州が違えば国が違うほどの違いもあります。それを言えば、「中華人民共和国」も「中華人民合省国」と言ってもいいか?現在、アングロサクソンの人口が減少中。州によっては有色人種の人口が白人種よりも多い。アメリカの会社だって、CEOはインド人なんて会社がゴロゴロあるが、WASPのイメージで語られる。白人種以外の人間が大統領になれば、扱いが南アフリカ共和国並になり、言霊の威力は落ちる。でも、やることは同じだけどなあ。

時事社会問題「言霊」辞典3 

◆「NPO、NGO」
プロレスで言う善玉。NPOとNGOは明らかに違うのだが、マスコミによって同じ存在とされた。NGOは、本来は「国連認定」の接頭語がつく。しかし、政府組織でなければNGOと言われることもある。NPO(非営利組織)は、利益を将来に持ち越さない株式会社の変形。NPOの構成員でしっかり高額の給料を得ているNPO組織もある。個人的な営利には目をつぶる。ボランティアで無給と勘違いしている人が多い。
◆「国際機関」
プロレスで言う善玉。しかし、各政府からの出向者も多い。途上国は政府職員の給料削減目的で利用する場合もある。数あるオーナー国でもっとも評判の高い国は日本。金は出すが口も職員も出さない。日本人ってダメですねえ。
◆「国際連合」
プロレスで言う善玉。国連と通称。国際連盟と勘違いする人間もいる。日本にばかり予算をたかる組織。それでも敵国条項は削除しない。世界政府ではないのに世界政府と勘違いしている人も多い。一番偉い人は事務局長。Secretary-Generalという名前ですので、何だ?秘書の親玉か?というぐらいで、国連総会議長でも、安保理議長でもないのに、何かと期待が多い。予算の無駄も多い。地球外知的生物監視団が、ETのコンタクトに備え24時間監視をしている。発見後は国連事務総長に速やかに通報されるらしい。日本の予算が一役買ってます。日本偉い!パチパチ!

時事社会問題「言霊」辞典4 

◆「大義」
しばしば日本語変換の間違いで「大儀」と書かれる。
「1.人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道。」
「2.国家・君主に対する忠誠」
が本来の意味だが、2の意味で国家・君主が出てくるので負の意味で使われる事が多い。民主党の、国連安保理の議決があれば自衛隊のイラク派遣は問題なかった、という主張は「大義名分-他に対してうしろめたさを感じないで、何かをやってのけるだけの恥ずかしくない理由」を必要としていることらしい。
◆「大儀」
日本語変換が「大儀」になってるよぉ~。大儀であった。
◆「テロ」
ヒダリの人は使いたくない用語。テロではなく、ゲリラ行為と呼びたいらしい。「テロ」では非政府組織による行為であり、「アメリカに対するテロ行為」では、あたかもアメリカが非合法の攻撃を受けている印象を与えるので好ましくない。「ゲリラ行為」なら、存在するか存在しないかわからない反動アメリカに対する非確認政府組織が存在するかのような錯覚を覚えるので好ましい。

時事社会問題「言霊」辞典5 

◆「脱北者」
「難民」と類義語と思われている。しかし、北朝鮮国内ではアッパーミドル以上が「脱北」できる、という何でも金!という点が忘れられている。単に「弱者」と思っている人も多い。
◆「国益」
「国」、「国家」が関連するので負のイメージで使われる言葉。実際は、「国益」に関係なく血を流す「原則」を重んじる国がアメリカで、「国益」を重視する国が日本なのだが、イラク戦争以降意味が逆転したらしい。
◆「イスラム」
判断に迷う言葉。以前は「弱者」側でアメリカに搾取される側だったので文句なく「善玉」だったのが、国際テロネットワークをやりだしたので、単に「弱者」という範疇に入れられなくなり、扱いに困っている。
◆「天皇制」「自衛隊」「平和憲法」
触れてはいけない禁断の言葉。「象徴」であり、具体的な定量的な存在としては意識されない。
◆「自衛隊」
特別国家公務員。民間人は死んでもニュースにはならないが、この「特別」国民が死ぬと、政府が倒れ、外交姿勢が崩れる。特別な存在。イラクでは最高日当3万円をもらえる。戦争はできないが軍隊としての体制は整っている。自衛できるかどうか定かではない。非常時に一般道路を戦車が走ろうとすると、各自治体は苦情を言い警察に逮捕される。逮捕されないように法整備中。
◆「天皇制」
最近は影が薄くなった存在。天皇家の人格が言霊としての迫力を不足させている。過去の三笠宮の失言などのようなバックアップが必要。
◆「違憲」
誰でも最近は使える言葉。しかし、その憲法自体が「違憲」判定できるのは裁判所だけだと書いているので、この言葉を常用するのは「イケン」ではないか?
◆「日本国憲法」
二桁以上の項目はほぼ読まれない可哀想な文書。何条まであるか知ってますか?9条で終わりじゃないですよ。

時事社会問題「言霊」辞典6 

◆「国連派遣軍」
なんでかなあ、自衛隊じゃあいけないのだろうか?国連派遣軍は戦闘装備を持つか、持たないか、そこのところの議論はナシだよね、紛糾しますから。でも、指揮権を放棄して国連に指揮委ねる、なんてなんとも心地よい響き、陶然としちゃいます。間違っても、韓国や中国の軍隊出身者が指揮官になりました、なんて、もしもそうなっても、派遣撤回、などと言い出さないように。白人なら良いっての?それは人種差別というのですが。。。
◆「不合理」
本来は、論理的必然性を欠くなどして、道理に合わないことの意であるが、言霊の場合、自分の主張の理屈に合わない様子、そして、自分の主張が実現する望みの全く絶えた限界状況の時使われる。不合理と不条理を混同して使用される。
◆「不条理」
本来は、事柄の筋道が立たないこと(哲学では、人生に意義を見いだす望みの全く絶えた限界状況を指す)の意であったが、不合理との戦いに敗れ、不合理に意味を吸収された。トホホ。死語に近い。語感として、「条理」よりも「合理」の方が「合理性」という変な言葉からして、格好がよさそうなのである。フランス哲学は死んだ。
◆「機会」
opportunity(偶然の意味は含まれない→努力してつかんだ機会)、chance(偶然の意味が含まれることがある→偶然得られたチャンス、棚からぼた餅だよぉ~)が都合良く使い分けられる。本来は、学生には、opportunityを与えるべきだが、PTAがうるさいので、機会均等とは、抽選、と同じと言うこと。運動会で、順位を付けずに、みんな一緒にゴールインも機会均等とされる。馬鹿なだけじゃん!
◆「均等」
協同と似たような語感。みんなで一緒にやりましょう!みんなで一緒に分けましょう!ということ。ただし、抜けると後が怖い。生活協同組合の共同購入で欲しくもないけど、抜けるとおばさま方に睨まれる、といのも機会均等だねえ。共産主義万歳!
◆「平等」
機会の平等。自分の都合の良いときだけ使う言葉。金持ちはモノポリーゲームの勝者なので、この平等の原則からははずされる。ほぼ、負け組に使われる用語。
◆「環境問題(狭義)」
広義の環境と狭義の環境の二つの意味がある。狭義の環境問題の場合、自分の周りの環境は変えたくない、原子力発電所・ゴミ処理施設・リサイクル施設・賭博場・高速道路誘致絶対反対!でも、電気は送ってね、ゴミ収集日が減るのはいや、物のリサイクル推進、たまには競馬にも行きたいね、車はたまにしか乗らないけど、一家に2台持ってます、なんて運用のされ方をする身勝手な言葉。
◆「環境問題(広義)」
広義の環境と狭義の環境の二つの意味がある。広義の環境問題の場合、TVなどで氷河の融解をやっていたり、地球温暖化現象の特集があったときだけ思い出される言葉。でも、漠然としていて理解されていない。温暖化ガスとオゾン層破壊ガスの区別が付かない人が、よく使う言葉。地球環境を守ろう!って、こら、デモの人、カップヌードルの容器を投げ捨てないように。

南京大虐殺を映画化 

2006年1月の古いニュースです。

現在、この映画制作の進行がどうなっているか、追跡はしていませんが、まだまだ、イーストウッドがはずれたのかどうか、計画が中止になったと聞いてはおりません。

第21回C.イーストウッドが南京大虐殺を映画化? 1
第21回C.イーストウッドが南京大虐殺を映画化? 2
第21回C.イーストウッドが南京大虐殺を映画化? 3
第21回C.イーストウッドが南京大虐殺を映画化? 4
第21回C.イーストウッドが南京大虐殺を映画化? 5

南京虐殺はあったかなかったか、などと、この問題を踏み絵のようにして延々と議論しているブログ群があります。左でも右でも同じです。私なりに整理してみたいと思います。

当時の南京は国民党軍が守備していて、共産党赤軍はそれに敵対する立場であったので、当初は冷たい扱いだったのはしょうがない。その国民党軍と日本陸軍の戦闘が行われたのが南京です。だから南京での戦闘。南京事件という呼び方もあります。

国民党軍と日本軍との戦闘行為で、両者が戦闘行為による犠牲者を出しただけなら『虐殺』という言葉にはなりません。軍属と軍属の殺し合いです。それが南京虐殺と言われるのは、日本軍属が中国人非軍属を殺害したからです。

つまり、軍属以外の中国人非軍属を殺めたかどうか?殺めたら、あった、殺めなかったら、なかった。こりゃあ、殺害したでしょう。当時の日本軍だったら、中国人非軍属がみんな国民党・共産党の回し者に見えたでしょうから。だから、虐殺が無かったとは私は言いません。たぶん有ったんでしょう。それが何人虐殺したにしても。

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