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スリランカの内戦 (3)  

FI76374_0E.jpg19世紀が始まって2年目。1802年。

この頃のヨーロッパはどんな状態かというと、ナポレオンがヨーロッパを席巻していた時期でした。フランスは、イタリア、ポルトガル、オランダなどはフランスの勢力圏にありました。イギリスはヨーロッパ大陸から封鎖されていました。

1802年、イギリス、オランダ、フランス及びスペイン間でアミアン条約が結ばれました。イギリスの首相で強硬派のウィリアム・ピットが退陣し、対フランス融和派のヘンリー・アディントンが首相になったため、国内の安定を重視したナポレオンの思惑とも一致して、この講和条約が結ばれました。この条約に何の因果か、セイロン=スリランカを長年植民地支配してきたオランダからイギリスへの譲渡が含まれていました。

その頃のセイロン=スリランカはというと、1796年、イギリスが、コロンボ(Colombo)、ジャフナ(Jaffna)、カルピティア(Kalpitiya)、トリンコマリー(Trincomalee)をオランダから奪取し、オランダからセイロン=スリランカを横取りしている最中でした。イギリスの当初の目的は、ナポレオンのフランスに対抗するために、セイロン島をインド帝国の防衛基地として利用することでした。日本の九州よりも一回り大きいだけの島ですから、インドと比較して、地勢的な防衛基地と考えており、経済的な利用は当初は考えていませんでした。ナポレオンも、セイロン島の実効支配がイギリスにある以上、ちっぽけな島をイギリスに譲渡しても実質上の問題はなかったのです。それよりも地中海の戦略上の拠点のマルタ島からイギリス海軍を追い出したかったわけです。

ということで、セイロン島はシンハラ王朝のキャンディー王国の支配地域を除き、完全にイギリスだけの植民地になりました。

FI76374_1E.jpgヨーロッパの戦乱は南アジアには及びませんし、フランスもそこまで手が回りません。インドのポンディシェリなどの都市がフランス支配を受けていましたが、南アジア地域で強大な力を持つイギリスに対抗できるほどの勢力ではありません。その当時、イギリスはシンハラ王朝のキャンディー王国の支配地域を侵略していました。キャンディー王国は1815年に滅亡し、2400年間続いたセイロンの独立も消えてしまいました。

そこでイギリスは、邪魔なオランダもフランスもキャンディー王朝も考えなくて良くなりましたので、当初のインド防衛としての戦略拠点のセイロン島の活用を考えたわけです。どう金儲けをするか?どう収奪をするか?

最初はコーヒーのプランテーションでしたが、気候が合っていないのかあまりうまくは行きません。そこで思いついたのが紅茶。コーヒーも細々とは続いておりました。そういったコーヒー・紅茶のプランテーションの労働力として、敵対していたシンハラ人よりもおとなしいインド人が向いていると考えたイギリスは、タミール地方から移民労働者(ほとんど強制徴用の奴隷)を連れて来始めました。それが1828年頃からです。これら移民労働者が累計で数十万人もの人数にのぼりました。

FI76374_2E.jpgその頃のスリランカの人口から考えると、10%近くの途方もない人口です。現在の日本で考えれば、1億2000万人のほぼ純粋な日本人のいるところに、強制的に朝鮮半島人とか中国人などの日本人とそりの合わない人種を1200万人連れてきたということに等しいわけです。その1200万人の朝鮮半島人とか中国人が日本列島に分散せずに、例えば九州に集中して居住している状態を想像下さい。もちろん、それらの朝鮮半島人とか中国人は、九州の日本からの分離独立を求めるでしょうね。

それまでも紀元前からタミール人の自発的な移住、タミール王朝の侵攻などはあったわけですが、突然、100年未満で人口の10%近くのタミール人がセイロン島にやってきたなどということはありませんでした。

現在、シンハリ人は全人口の74%、約1357万人、古くから住んでいるタミール人は12.6%、約231万人、加えて19世紀にインドから移住したタミール人は5.6%、約103万人です。

現代の西洋民主主義国家であるポルトガル、オランダ、イギリスは中華人民共和国がチベットなどでチベット人の人口移動や漢族の移住を非難しますが、17世紀、18世紀には彼らはそれと同様な行為をスリランカに限らずアジア・アフリカの植民地で行っていました。それが200年経った現在に至って、アジア・アフリカで問題となっているということです。

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スリランカの内戦 (2) 

FI76356_0E.jpgスリランカの内戦状況とキリスト教という文書があります。キリスト教が多宗教間連帯を説いて、スリランカの内戦をキリスト教の立場から内戦状態のスリランカを憂慮して、なんとかできないかと活動している全部で6ページのレポートです。これを読んで、私は複雑な思いを抱きました。キリスト教という宗教が友愛を説き、人種・宗教に根元があるこの内戦を憂うのはもっともですが、元々の発端は、キリスト教国であるフランスとイギリスの確執に端を発しています。それは帝国主義の時代の産物で、現代のキリスト教徒には関係のない話で、帝国主義は宗教とは関係ないとはいえ、その当時のイギリス・フランスの国民はほとんどがキリスト教徒でした。キリスト教徒で構成される国家が、植民地帝国主義で南アジア諸国を蹂躙した歴史を踏まえての、現代のキリスト教が果たしうる行動というのなら私もあまり複雑な思いを抱かなくて済むのですが。

まずは、この文書中の引用をみてみます。

ソマシリ・ペレラ「希望」『スリランカのための哀歌』(Somasiri K. Perera, “Hope,” in A. Wynne ed., Lament for Lanka, CCA-IA, 1989. pp.125-126.)より

1983年の暴動の直後のことでした。仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒による会議がコロンボで開かれました。・・・私は話を求められ、次のように発言しました。『キリスト者として、私はこの両手が無実のタミル人の血でぬれているとしか思えない。私は人を殺してはいないが、キリスト教の教えを見ると、連帯という考え方、集合的責任という考え方があります。私はシンハラ人で、シンハラ人はタミルの人々を殺しました。・・・ですから、私はタミルの兄弟姉妹たちに、シンハラ人としてなした事柄について、どうぞ私たちを許してくださいとお願いいたします』と。・・・私はこのことをキリストの福音の重要な部分だと信じています。ある人たちに対して不正をなしたときに、申し訳なかったと言い、許しを請うことなくして、いかなる和解についても語ることはできません。・・・キリスト者として私は、癒しと和解とは、悔い改めと許しがあってはじめて起こるのだと信じております。

と、このように説かれると、もっともであると納得してしまいます。仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒よりもキリスト教徒の方が寛容で慈愛に満ちているかのような印象を持ってしまいます。1983年の暴動は、主に仏教徒のシンハラ人がヒンドゥー教徒のタミール人に攻撃をかけたからです。キリスト教徒、イスラム教徒はあまり関与していなかったという事実があります。だから、キリスト教側は調停ができる立場であり、各宗教の調停を行う権利があるかのような主張です。

リエンツィ・ペレラ「国家的危機における教会」(Rienzie Perera, “The Church amidst the National crisis. A Southern Perspective. The place and the responsibility of the Sri Lankan Church in a situation of conflict,” Sri Lanka. hopeless & challenge. The Mission of the Church in situations of conflict. CCA-IA. 1992. pp.51-62.)より

南部での私の仕事は、スリランカ全土が内戦に巻き込まれていた時期に始まった。今でも忘れられないのだが、私は、町の四辻で身元の分からない半焦げ状態の死体が放置されているのを見た。一般市民を恐怖に陥れるために、街角に死体をぶら下げておくことがしばしば起きていたのである。私にとって、それは十字架刑のシーンであった。首なし死体が見慣れたものとなっていた。町全体が不安と恐怖の空気で充満していた。

FI76356_1E.jpgこれは1988年8月頃に発言されたものです。私のその当時コロンボにおりましたので、「町の四辻で身元の分からない半焦げ状態の死体が放置されている」光景はよく目にしました。河に「首なし死体」が流れてくるのも日常茶飯事でした。

これらのことは、今から23年前の暴動事件から始まったと言われていますが、この仏教徒のシンハラ人がヒンドゥー教徒のタミール人に攻撃をかけた事件が、突発的に発生したわけではありません。

この暴動は、

1983年07月24日
コロンボ市内各地で、タミル人の商店に対する放火や略奪などが続発し、タミル人大虐殺へと発展。コロンボのウェリカダ監獄で、タミル人政治犯など53名が虐殺される。コロンボ市内に外出禁止令(同月27日に解除)

という事件でした。その翌々日にも、

1983年07月24日
暴動が、ガンパハ(Gampaha)、カルータラ(Kalutara)、キャンディ(Kandy)、ヌワラエリヤ(Nuwara Eliya)、マータレー(Matale)、トリンコマリー(Trincomalee)などに波及。全島に外出禁止令(月末に解除)。この「1983年の暴動」によるタミル人の死者は数百人、家を失ったものは9万人に及ぶとされる。

という事件が続き、現在に至っているということです。

では、その以前、さらに以前、200年前には何が起こっていたか?歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。

スリランカの内戦 (1) 

FI76350_1E.jpgスリランカの歴史はヨーロッパ諸国が来るまでは、シンハラとタミールの取ったり取られたりの戦いで、タミール系のチョーラ王朝・カリンガ朝・ヤルパーナムなどが支配した時期もありました。

その後、ポルトガル・オランダ・イギリスなどの植民地支配で、シンハラ・タミールに関係なく、植民地経営に邪魔な王朝は虐殺。18世紀のイギリスの新聞を読むと南米でスペインがやったのと同じ事をイギリスもしていたのがわかります。

植民地支配を脱した後、しばらくシンハラもタミールもはた目には仲良くやっていましたが、結局千年前の取ったり取られたりに逆戻りしたということですね。今に始まったことではない。

また内戦が始まるか?と言っても、今回はLTTEも国際的につるし上げられていて、過去と同じ繰り返しとはならないような気がします。

二十数年前のドンパチよりは規模が小さいので、初めてこういう事態に遭遇した人は驚くでしょうが、あまりたいしたことはありません。コロンボでカーフューでも発令されたら問題でしょうが。

FI76350_2E.jpg日本人はシンハラ、タミールがなんで仲良くなれないのだ?と単純に疑問に思うようですが、じゃあ、北朝鮮・韓国・中国と日本人はなんで仲良くなれないのだ?と自問してみれば、話はそれほど単純ではないと想像できるでしょうね。

さらに言えば、タミールナドナ州があり膨大なタミール人口を抱えるインドが、スリランカ政府の方に肩入れしたり、見て見ぬ振りをしたりするというのもどういうことかと。つまり、インドと言っても一枚岩ではなく、インド国内の数ある人種の中でもタミール人は独立性向の高い人種ということ。インド中央政府も手を付けかねています。ラジブ・ガンジーもLTTEに暗殺されましたしね。

アイルランド紛争で、IRAやシンフェイン党と一般のアイルランド人とは政治傾向が違ったように、LTTEと一般のタミール系スリランカ人は違います。同様に、イングランド人と北アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人はそれぞれ国が違う(国家としては同じですが)と思っているように、シンハラ人とタミール人もつかの間の呉越同舟と考えています。肌の色が似通っているからといって、同じと考えられません。しかし、日中韓朝鮮台湾ならある程度お互いの見分けがつきますが、欧米人から見れば同じと思ってしまうように、シンハラ・タミールも日本人から見れば同じに見えてしまうということ。民族というのはややこしいものです。

Ceylon, Polonnaruwa 

0391polonnaruwa.jpgスリランカの歴史- 483BC~1948年(独立前)
ポロンナルワは、シンハラ王朝がインドから移ってきて最初に首都としたアヌラーダプラに次ぐ、スリランカの2番目に古い首都です。

アヌラダプラは、シンハラ人の王、ドゥッタガーマニー(Dutugemunu)がタミール人を追い出して、AD161年に首都と定めました。その後、10世紀末に南インドのチョーラ王朝が、アヌラーダプラを征服。やむなくシンハラ王朝はアヌラーダプラを捨て、ここポロンナルワに都を移しました。これが西暦1017年です。鎌倉幕府が1192ですので、平安時代の末期頃ですね。ポロンナルワは、10~12世紀に最も栄え、14世紀以降は廃墟となりました。今でも人なんか住んでません。これがいいのかも。1900年以降になって遺跡の発掘がやっと開始されました。


0393polonnaruwa.jpgポロンナルワは、コロンボから216キロメートル北東に位置し、世界遺産に登録されています。しかし、世界遺産に登録されてもポロンナルワ饅頭を売っているわけではありません。ポロンナルワ煎餅なんてのもないです。密林の中に、古代の都がひっそりとたたずんでいます。この都市は人工の灌漑湖の堤に接しています。その灌漑湖は「パラークラマサムードゥラヤ」といい、コロンボ港よりも大きく、スリランカで最大の貯水池です。10世紀に作られた灌漑湖ですが、今でも使われています。

◆11世紀:ウィジャヤバーフ1世(Vijayabahu Ⅰ)
 灌漑施設を整え仏教の普及に努める
◆12世紀:パラークラマ・バーフ1世(Parakrama BahuⅠ)
ウィジャヤバーフ1世の孫にあたる有名なパラークラマ・サムドゥラという灌漑貯水池を造る
◆1187~1196年:ニッサンカ・マーラ王(Nissanka Malla)
 南インドのカリンガ王朝出身、多くの石碑有り。
 この後、またもや南インドのチョーラ王朝の侵略を受けて都は衰退する。


0398polonnaruwa.jpg遺蹟は、

1.王宮
2.王の会議室(ニッサンカラター・マンダパヤ)
3.聖骨部屋(ハタダーゲ)
4.仏舎利塔(キリヴェヘラ、ワタダーゲ、パブルヴェヘラ、ランコットヴェヘラ)
5.ヒンドウー教寺院(シヴァデーワーラ)
6.池(ネルムポクナ、クマーラポクナ)
7.イメージハウス(ティヴァンカピリマゲ、ランカティラカ、トゥパラーマ)
8.寺(ポツグルヴィハーラ)
9.バラークラマバーフ王像

芸術的な彫刻を施したパルラヴァ朝(南インド)の伝統的建築様式の影響から多くが構成されています。同時に、基本的に仏教様式のものもあります。アヌラーダプラとは異なり、これらの遺蹟すべてが小さな場所に集中しています。アヌラーダブラと比較すると、建造物により多くの煉瓦が使われています。ティヴァンカピリマゲには何点かの絵画が残され、また、煉瓦で創られた巨大な
仏陀像があります。ガルヴィハーラは岩を切り開いた複合体の仏像で、ポロンナルワでは非常に変わった形をしています。ここは他の記念碑から2、3キロメートル離れています。


0411polonnaruwa.jpgスリランカ大使館ホームページ-歴史
首都がポロンナルワに移転されたのは、主に戦略的な理由があります。1017年から 1215年までのポロンナルワ時代に、多くの美しい建築様式で都市を引き立たせた3人の王達により優れた発展が成し遂げられた。ロイヤルパレス、観客ホール、仏教寺院、仏舎利塔、ヒンドゥー教寺院、池等が建てられました。


ポロンナルワの王達は、南インドの王朝でどのように内政が影響しているかを認識し、南インドの王女と結婚することで戦略的な同盟を築いた。このように、ポロンナルワの芸術と建築は、アヌラーダプラに比べると、南インドの芸術と建築に多大なる影響を及ぼした。ポロンナルワも世界遺産の一つである。


0415polonnaruwa.jpg
しかし、この同盟や首都の移転は侵略を終わらせることはなく、益々増えていった。首都と定住は、南方の湿地帯へと徐々に移動していく。首都はそれから6世紀の間、湿地帯のダンバデニヤ、ヤーパフワ、スリジャヤワルダナプラコーッテ、キャンディ(世界遺産)へと移転された。

度重なる湿地地帯への首都の移転と共に、乾燥地帯で農業を支えていた灌漑設備は、徐々に衰えていった。経済を独占していた農業は、ヨーロッパや中東におけるスパイス、宝石、異国情緒のある動植物の増加する需要と共に、貿易中心の経済へと少しずつ変化していった。

この島に最初に訪れたヨーロッパ人はポルトガル人であり、16世紀、東部以外の湾岸平地の大部分を支配下に置いた。彼らはキリスト教も伝道した。ポルトガル文化の影響は未だにこの島には残されている。良い例では、バイラという歌で、地元文化に溶け込んでいる言語や食べ物等の一部として、残されている。

シンハラ語で話してみよう-3 

SAY IT IN SINHALA.pngというわけで、

シンハラ語。大野晋がタミール語と日本語は似ている、日本語の起源はタミール語ではないか?と言っていますが、私はシンハラ語だって日本語と似ていると思ってます。

文法形態で言語というのは分類出来ません。S(主語)+V(動詞)+O(目的語)の英語をはじめとする西洋主要言語と、S(主語)+O(目的語)+V(動詞)の印欧語族でも、言語的な分類は同じ仲間。どこで、O(目的語)とV(動詞)がひっくりかえっちゃたのだろうね。まあ、いいですが。

それでも、いちいち日本語のS+O+Vを英語でS+V+Oと考え直すのよりは、インドの言語は日本人には習得しやすい。シンハラ語もインドの主要言語と同じS+O+V。

※厳密には違いますよ。インドにもS+V+Oの言語はあります。しかし、言語学、比較文化学の論文じゃありませんからお許し下さい。ただし、間違っている場合にはご指摘を。間違いを放置しておくのは恥ずかしいからね。

それでですね、何が学習本としてよろしいか、今回スリランカに行きましたので、いろいろ見てきました。

Teach Yourself SINHALESE - A complete Course for Beginners
by A.W.L.Silva


。。。買いましたけどね、シンハラ語の話す・聴くを修得したい私に、シンハラ語の文字はいらんでしょうが。タイ語の文字をまん丸くしたような文字なんですがね。シンハラ文字の読みを英語の発音で書いた後は、シンハラ文字で押し通そうとしてますよ、この本は。読み書きはいらないのだよ。ということで、ボツ。

SAY IT IN SINHALA by J.B.Disanayaka

その点、この本は良い!英語もシンプルです。

一番良いのが発音の表記。日本で英語の授業を受ける時、『e』の逆さまになったヤツとか、『ae』合体の文字なんて発音記号を習わされて、これじゃあ、もう一つ言語を習っているようなもんじゃないか?と私は思ったものです。あれで、喋るのがイヤになる日本人が何十万人いるんでしょうか?

ということで、

0. INTRODUCTION
1. WHY LEARN SINHALA?
2. NEW WORLD OF REALITY
3. SINHALA WITHOUT WORDS

は飛ばして、Chapter 4の"WRITING SINHALA IN ENGLISH"から説明してみましょう。

4. WRITING SINHALA IN ENGLISH
4.英語表記によるシンハラ語
この冊子では、シンハラ語は、英語のアルファベット、正確にはローマンスクリプトを多少変更したもので表記します。これらの変更は、英語のアクセントでシンハラ語の発音を表記するのを避けることを常に念頭に置いています。

いいじゃないですか。シンハラ文字で書かれた日には学習するのがイヤになりますからね。

伝統的な英語表記では、ひとつの文字はあるひとつの、或いは、いくつかの異なった発音を表しています。

例えば、"a"という文字は、少なくとも6つの異なった発音を表します。"all"、"apes"、"and"、"asses"、"are"、"away"などです。

ゲゲゲ!

"all"
"apes"
"and"
"asses"
"are"
"away"

パッと言われたら私には識別出来ません。カタカナで書いても識別出来ませんね。確かに口の形も違えば、短くきったり、伸ばしたり、いろいろ違いますね。ちなみに、"asses"と言うのは財産・資産という意味の"asset"の動詞形です。日本の発音記号だと、あの"e"の逆さまになった発音ですね。

この冊子では、それぞれの(英語のアルファベットの)文字は、ひとつ(の文字)がひとつの音(おん)を表すようにします。例えば、"a"は英単語の"up"、"cut"の母音を表します。

う~ん、親切だ。複雑なことを単純に、難しいことを簡単に教えるのが教師の役割。いいですねえ。

母音の後に続く":"(コロン)は、コロンなしの母音の2倍の長さで発音されることを表します。

ma-la = flower
ma:-la = neckless
pa-na = life
pa:-na = lamp

なるほどね。

シンハラ語で"ma-la"(マラ)は花ですが、"ma:-la"(マーラ)はネックレス。"pa-na"(パナ)は命が、"pa:-na"(パーナ)はランプ。

ふたつの同じ文字(発音記号)が続けて表記された時、それは明確に、二つの別の音節として発音されます。

ma-la = flower
mal-la = bag
e-ka = one
ek-ka = with

まあ、これは発音を飲み込めばいいのですよね。

"ma-la"=(マラ)
"mal-la"=(マルッラ)

ただし、「ルッ」はそれほど強調して発音するんではなく、下を丸める程度で発音すればよろしい。

"e-ka" = (エカ)(一、ひとつ)
"ek-ka" = (エッカ)(~と一緒に、共に)

も「ッカ」は日本語の「ッカ」よりも弱めに発音すればいい。

あ~、長い。

まだ、発音記号の話ですが、お次に続く。。。_| ̄|○

シンハラ語で話してみよう-2 

SAY IT IN SINHALA.pngそれで、

前の会社でシンガポールへの赴任者を募ったので、私以外誰がいるんだ?!ということで、他の人間にチャンスを与える機会を奪ったわけだ。他の人間も海外に行って人生が変わるよりも良かったであろう。海外恐怖症の人間も多かったからね。

シンガポールに行くと、シンガポール人は福建語・広東語などあまり話さず、英語で十分通じた。しかし、それでも、多少の福建語・広東語は単語程度は覚えた方が重宝したし、マレー語も必要であった。しょうがない。マレー語も多少覚えた。9年間をシンガポールで過ごした。

会社が突然帰国せよと命じてきた。

それは困る!娘の教育は日本では出来ない。なので、即辞表提出。香港に職を求め、かくて現在まで6年の香港暮らしである。

シンガポールとは違って、香港では広東語が多少必要。でも、他言語習得が非常に嫌いな私は英語で通してます。

あれ?

ついに、他言語の中に英語が含まれなくなったか。やれやれ。

それから、普通語(プートンファ)。北京語という中国の標準語ね。これまた、単語程度は覚えますが、それ以上の学習は拒否。英語で通している。それでも何とかなるもんだ。

と、

長い前置きだったが、私の語学へのマイナス20度の思いが判って頂けたと思う。

しかしながら、

ツラツラ思うに、娘がNZの大学に行ってしまったら、あまり香港にいる意味がない。娘の大学は2007年1月から2010年の年末まで。留年は一切許しません。大学院に行くというのなら考えますが。で、2008年6月には家族全員が香港の永住許可がおりる。そして、2008年8月は北京オリンピック、2010年は上海万博。世界のエネルギーも先が見えてきたし、中国の発展もいつまでも続くわけじゃない。

それならば、2008年6月を目処に徐々にスリランカに回帰することを考えねばならない。

え?日本?

やなこってす。

老人医療がものすごく高い日本なんて住めないね。スリランカなら賃貸住宅に住んでも、24時間看護のナースをつけて、メイドをつけて、20万円もあればお釣りが来ます。ドライバーだって雇えます。

ならば、

よいよいになった時に、スリランカの言葉で十分喋れないといけないじゃないか?

ということで、

スリランカの主要言語で、ヨメさんの民族の言葉、シンハラ語を修得しなければいけないと真面目に考え出したFRANK LLOYDでした。

あ~、長い。

シンハラ語で話してみよう-1 

SAY IT IN SINHALA.png私がはじめてスリランカに行ったのは1985年4月1日であった。その当時の私は27才。会社に入社して4年目。

言語と言えば、日本語はもちろん1級と自負し、英語はもちろん4級と自負していた。なにせ、中学・高校・大学と英語は相性が悪く、常に赤点であった。私の中学・高校は6年間一貫教育のミッションスクールで日本でも有数の進学校でもあった。

中学の時の赤点のボーダーラインは65点。高校になって、これじゃああんまりにも赤点のレベルが高すぎるだろうと、50点に引き下げられたが、私は常に62点とか48点程度しか取れず、中間テスト、期末テストの後の補習の常連であった。英語の教師はフランス系のカナダ人達であったが、彼らも私の発音の悪さにさじを投げた。

それ以来、語学というのは苦手である。今でも苦手である。家では英語しか喋らない環境にあるが他言語を話すというのは非常に苦痛である。海外に出て、国際結婚までして、足掛け21年経とうとしているが、なぜ、英語なんか話しているか理解しがたい。他言語の修得は大嫌いなのだ。

スリランカに5年ほど赴任し、娘がその間に生まれて、帰国命令が出た。やれやれ、やっと日本だ、もう、ヨメさん以外に英語を喋る必要もない、と安心した。

ところが、

ヨメさんも日本の生活に圧迫感があり、娘の将来の教育も考えなければいけない。私自身は多言語など修得するのはまっぴらなのだが、こと娘に関しては、誰がなんと言おうと日本語を教えるのもまっぴら、とこう思っていたのである。言語は文化を運ぶ。日本語を第一言語としたばかりに、日本化したガキに痛い目を見ている国際結婚仲間を見るにつけ、日本の学校、日本語の教育は絶対娘には受けさせない、とこう誓った。

『美しい日本と私』などウソなんである。というか、『美しい日本と私』を常に考えている文化人ばかりならそうであろうが、ミニスカートにパンツ丸出し(その当時はそういう風俗はなかったがそのかわり引きずるようなロングスカートが流行っていた)、高校生で喫煙しているガキを見るにつけ、日本語を教えたらいくら私が躾ようと、周囲の影響でこうなってしまう可能性があると危惧したのだ。

未だにその考えは変わらない。娘の前の学校の日本人の友人は3才から香港で教育を受け、英語はネイティブ並に出来る。しかし、第一言語は日本語である。14才の時には、既に日本のTV(日本からビデオなどが送られてくる)の影響なのか、日本の雑誌の影響なのか、はたまた日本人の友人の影響なのか、夏休みには処女喪失を目標として、それ以来3年間男あさりに余念がない。朝も顔を洗わず、勉強もせず、日本で言う汚ギャルと化している。グッチもじゃらじゃら持っている。私の頃はそういう女は公衆便所と称したものだが。大学もどうするんだろうね。

と、話がそれた。

『日本で確実に進行中 階級社会の恐怖』に関して2 

私はコメントを頂くのが大好きです。

普通は、自分のエントリーの発言に関しての好意的なコメント、共感を持ったというコメント、ほめられているコメントを頂くのが好き、という人が多いのでしょうが、私は、私のエントリーに関して、それは違う!というコメント、悪意を持ったコメント、反感を持ったというコメントも大好きです。(むしろそっちの方が好きだったりして。。。_| ̄|○)

MLやいろいろな席などで、昔からディベートするのが好きでした。ディベートというのは、ディベートって何?を読んで頂くとわかりますが、対手はまず絶対に自分と同じ意見という人はいません。対立する意見を持っている人がほとんど。もちろん私が言うディベートは公的な物ではなく私的な物です。

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日本で確実に進行中 階級社会の恐怖 

ご本人がコメントを残して下さったのか、さてまた別人28号なのか知りませんが、せっかくのコメント、尻切れトンボで、この本読めとか、バカとか、本人ならばジャーナリストで作家という肩書きが・・・と情けなくなります。ということで、2005年9月3日のエントリーですが、日付を変えて再録致します。コメントの続き、よろしくお願い致します。いくら書いても構いませんから。。。

註)下記の林信吾氏関連の記事はリンク切れになってました。。。_| ̄|○
註)下記のエントリーは、林信吾氏の著作の引用が一部含まれているリンク切れの記事に対しての感想です。林信吾氏の著作、送って頂ければ読んであげます。香港は日本の本は高いんですよ。もっと、金を出して読む本が他にあるので。。。

参考1:
◆貧困率の高い国――日本
階級社会の恐怖、お金の力学、教育格差などについての走り書き
しのびよる「階級社会」の恐怖★
参考2:林信吾氏著作
しのびよるネオ階級社会
ニッポン不公正社会

日本で確実に進行中 階級社会の恐怖
ひとたび貧乏になったら、その子供はもちろん子々孫々まで貧乏から抜け出せない――日本は今、そんな「階級社会」に突入しようとしている。本屋に行けば「不平等社会日本」「日本の不平等」「しのびよるネオ階級社会」といったタイトルの本が並んでいる。「昔から貧富の差はあったし、オレはそこそこの収入がある“中流”だから大丈夫」なんてタカをくくっていると大変なことになるぞ。

いやいや、当たり前のことを当たり前に言う、それをさも特別なこととして言う。コネ、情実。昔からありますよねぇ~。と、何を言っているんだ?と思って読んでいると、

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才能もなく、資産も少ない人間は、自立できないのか? 

九条の会 戦争放棄の堅持訴え…初の全国集会
戦争放棄をうたう憲法9条の堅持を訴える市民らでつくる「九条の会」が10日、2周年を迎え、東京都新宿区の日本青年館で初の全国交流集会を開いた。運動は全都道府県に広がりをみせており、約1500人が参加した集会では、地域や職種ごとの「九条の会」が5174に上っていることが報告された。

呼びかけ人の一人で、評論家の加藤周一さんは「改憲勢力は議会の多数派だが、国民多数の支持は得ていない。想像力を働かせ、9条を守るために何ができるか考えたい。今なら勝てる可能性がある」と訴えた。評論家の鶴見俊輔さんは「私はもうろくした老人だが、戦争を起こす文明に対して『もうろく人』として反対していきたい」とユーモアを交えて語り、会場を沸かせた。

「改憲勢力は議会の多数派だが、国民多数の支持は得ていない」

こうは断言できない。さまざまな報道機関、政府、民間団体が意識調査を行っていますが、朝日・毎日新聞では改憲に反対が多く、読売・産経新聞には改憲に賛成が多いという結果などは、これは購読者層の違いであるのはあきらか。民間団体も左翼系なら反対が多いでしょう。サンプリング数も問題があります。神戸新聞のアンケートなどは、アンケート総数45人。これでは結論の出しようがありません。真実一郎さんのエントリー、世論調査「改憲容認」75%を読むと面白いですね。選択バイアスの設定など興味深い。

いずれにせよ、評論家の加藤周一さんのように「改憲勢力は議会の多数派だが、国民多数の支持は得ていない」というのは彼の主観、希望的観測でしょう。その改憲の是非を問うのが国民投票なのではないでしょうか。その国民投票を怖がる傾向が左派には見受けられますが、それは結果を見るのが怖いという心理ですね。

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