カテゴリー  [哲学・心理学 ]

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マインドセットされた者の心理学(1) 

「正義」というメタファーは誤解が多い代物です。しかし、この題目は私にとってしばらく考えたいものです。「正義の側」の続きで、今度は「マインドセット」について考えていきたいと思います。

マインドセット」などと言うと、何だぁ?と思われるかもしれません。FRANK LLOYD語で意訳して、「意識固定」、「認識固定」、「言霊自動反応」などという意味でお考え頂ければいいと思います。或いは、「思考の型、考え方の枠にはまった知能」とでもいいましょうか。

マインドセット」は誰でも持っているものです。日本人として意識が固定されている、アメリカ人として意識が固定されている、国籍・文化・成長した土地・両親・友人、あらゆる要因のマインドセットが考えられます。

さて、

いつか、どの新聞か忘れましたが、その新聞の1面に、ある大学の数学の問題が紹介されていました。たった1問。円周率が"3.00"以上である事を証明せよ、という問題です。

おお、良い問題だな、と思いました。丸暗記した、定式化した問題ではなく、規定内の時間で、さまざまなアプローチで答えを出せる問題です。最近の日本の学校は、円周率を3.14ではなく、3で近似して教えるのだそうです。これは私の娘の通っているインターナショナルスクールでも同様です。これに関して、「ちゃんと(?)」3.14で教えないといけない、という意見も多いですが、私はそうは思いません。考え方の道筋さえ正しければ、3であろうと、3.1であろうと、3.14であろうと、小数点以下60桁まで教えようと、どうでも良い事です。

ただし、その考え方の道筋に行き着くためには、無限分割の話とか、円に内接する多角形、三角形の各辺の長さの導き方とか、定理、公理を理解して無くてはいけない。そして、定理・公理まで、自分で考えて発見せよ、というのは、学生個々がニュートンやアインシュタインではないので、まず不可能です。これは、丸暗記でいい。公理・定理がどう証明されたか、丸暗記してしまえ、できれば理解して、ということです。

これら、無限分割の話とか、円に内接する多角形、三角形の各辺の長さの導き方などの定理・公理がわかれば、この問題を解く事は応用問題ですね。ようするに、円に内接する多角形の外側の辺の長さの合計が、直径の3倍より多ければいいのですから、手っ取り早いのは円に内接する正八角形で証明すればいいでしょうか?他にもいろいろな答えがあります。私もいくつか考えようと思ってます。

マインドセットされていると、こういった問題を解く事は難しい。意識、認識が固定されていますから、3.14でいいじゃないか?なぜ、3以上なんて問われなければいけないのか?と、3.14で習った世代は考えるかもしれない。「円周率が3」と習った世代だと、これが丸暗記ではなく、考え方の筋道で習っているはずですので、日本の子供は知りませんが、私の娘は解けてしまう。こういった具合で、丸暗記には丸暗記の効用があり、考えさせる学習には考えさせる学習の効用があるのですが、いずれかにセットされると、丸暗記派か、或いは考える学習派か、とどちらかに偏ってしまいます。

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マインドセットされた者の心理学(2) 

FI69431_0E.jpg中学校や高等学校で習う生物学で、必ず出てくるのが生命の樹のような系統樹とかピラミッド構造で頂点が人類になっている図です。例えば、この「系統樹」は、何を意味するのか?間違った印象を与えます。

ダーウィンは、適者生存とか適応放散・適応集中の話をしましたが、生命の系統樹を『種の起源』に図示したわけでもありません。滅びた種が優秀でないとは一言も述べていませんし、人類が適者生存の頂点に立っているとも述べていません。言っているのは逆の事で、人類とは神の似姿でも何でもなく、無尾猿類や有尾猿類、原猿などと共通の先祖を持つ(猿が人間の先祖、と認識されているとしたら間違いです)と、人類を神の高みから引きずり下ろしたのです。ましてや、生命のピラミッド構造などを考えたわけではありません。人類は生命界の頂点ではありません。

FI69431_1E.jpgこの生命の系統樹とか生命のピラミッド構造を中学・高校で刷り込まれるので、生命の進化に関して間違った認識を持ってしまいます。これはマインドセットの一種ですね。

正しい(と思われる)生命の世界のイメージとしては、ある価値の方向性を持った図ではありません。生命の進化図としてはタマネギ構造が最適でしょう。少なくとも時間という方向性と、種の多様化という方向性はありましたし、これからもあるでしょうから。

FI69431_2E.jpgタマネギの中心で原初の単細胞生物から始まって、次の皮では単細胞生物の皮の上にポツポツ多細胞生物が出て、さらに単細胞・多細胞生物のベースにポツポツ無脊椎動物が出て・・・というように、ベースである単細胞生物がいなくなることなく、皮がどんどん厚くなってくる、そして、今は、単細胞生物、多細胞生物、無脊椎が昔と変わらずそのままいて、脊椎動物の中にポツポツ人類もいる、とこういうのが実際の生命進化の姿でしょうね。

FI69431_3E.jpgつまり、バクテリアやウィルスってのがいつもベースになっているという事で、人間なんてたいした物でもなく、タマネギの一番外側の皮の表面に部分的に点在しているにすぎません。

ダーウィンの進化論は、ダーウィン自身が嫌っていたように進化=進歩ではありませんでした。それから、進化論=唯物論ですが、それを進化論=唯物論=唯物史観にこじつけようとしたマルクス・エンゲルスも大嫌いでしたね。

進歩というのは、

【進歩】よい(望ましい)方に次第に進んで行くこと。

なんて意味ですが、これは自然科学では何だぁ?の理論になります。誰が、何が望ましい方向に進める意志(意識)を持っているのだぁ?という事。自然科学は唯物観(唯物史観ではない!)ですので、そのような存在しない意志とか意識は認めませんね。物事は進みます。しかし、どこに進むのか、どのように進むのかなどは、偶発的要因に依ります。ましてや、それが、「良い」とか、「望ましい」などという曖昧な意味での価値基準で判定される方向に常に進むという理論を自然科学は絶対に受け入れません。社会科学なら別でしょうが。

日本では、「進歩」と「進化」で字が二字の言葉で、最初の漢字が同じというように似ていますから、ますます混同の度合いが高まります。英語では全然違いますね。

【進化】evolution
生物が何世代もかけて形態や機能の分化・変異の過程を積み重ねながら、より環境に適した状態になること。
【進歩】progress; (an) advance; (an) improvement
よい(望ましい)方に次第に進んで行くこと。
【evolution】展開, 発展, 進展

という意味もあります。元々はラテン語の「(巻物などを)開くこと」の意味からの言葉。
これまた、

【revolution】 (政治上の)革命、〔思想・行動・方法などにおける〕大変革、激変、革命

とスペリングが似ていますので、混同の度合いが高まりますが、【evolution】と【revolution】は語源も成り立ちも違う言葉ですから誤解のないように。

マルクスもエンゲルスもレーニンも、「唯物史観」という割には、人民なる階層をでっち上げて、それに人民の「意志」なる物を付随させて、全然唯「物」じゃなくて、唯物+人間の心の観念、なんじゃないの?と思ってしまいます。まあ、社会科学ですので、証明できませんし、言い出すのは自由ですね。

彼らは、本気で、共産主義、なるものを信じていて、資本主義とか社会主義とか、社会制度を進歩の階梯で一途づけて、共産主義が望むべき社会制度であるなどという理論にしましたが、やれやれ、なぜ、それが万民が望むべき社会制度なのか、彼らの著書ではあやふやですな。

みんな結果が平等というのは、望むべき社会体制なの?それって、貧者の論理、敗者の論理で、働かざる者も食わす論理ですねえ。それでは、その社会が死に絶えるかもしれない。そうなったら元も子もなくなりますが、その話には触れようとしないのが常ですね。

組合運動と同じです。組合運動にかまけて、ぶんどり合戦を演じたあげく、本業がおろそかになって、その会社が左前になるなんて、カルロス・ゴーンさんが来る前の日産と同じですね。結局フランスに身売りしちまいましたし。

【共産主義】
その社会の人たちが生産手段やそれと関連する社会的財産を共同で持つこと。基本的生産手段や財産の私有・世襲を否認し、階級や搾取の無い社会の実現のためにプロレタリア階級を解放しようとする主義。マルクス レーニン主義はその一つ。コミュニズム。

「階級や搾取の無い社会」を成立させるためには、階級をなくさなければいけませんが、それは個々人の違いをなくせ、と同じ事。不可能ですね。搾取は、階級差の低い階層から高い階層が利益を吸い上げる事ですが、階級差が固定されていた時代のマルクスやレーニンなら主張する必要もあったかもしれませんが、階級差の流動が可能な現代にマルクス・レーニンが生きていたらなんと言った事か。

「階級や搾取を気にしない社会」はできそうですね。「階級や搾取の無い社会」は不可能でしょうな。

マインドセットされた者の心理学(3) 

ゲーデルの不完全性定理
■ゲーデルの不完全性定理は、数学基礎論における重要な定理の一つで、クルト・ゲーデルが1931年に発表した。

【第1不完全性定理】
●自然数論を含む公理系が、無矛盾であれば、内容的には真であるが、証明できない命題が存在する。
【第2不完全性定理】
●自然数論を含む公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。なお、第1不完全性定理の拡張として、証明も反証もできない命題の存在はロッサー (1936) によって示された。また、第2不完全性定理に関して、ロッサーによる証明の定義を用いれば、体系自身の無矛盾性が証明できることが、クライゼル (1960) によって指摘されている。

これは何か?物理学を学んだだけですので、数学はおそろしい。数学者は物理学者と違って天空に住む者です。これは何だぁ?

これはですな、

「閉じた論理体系はそれ自身が内包する定理を証明できない」

ということです。数学の定理を社会学や心理学に当てはめるのは無理があると思いますが、あえて当てはめれば、

●正義と自己規定してしまった閉じた論理体系では、それ自身が内包する問題の証明ができない

と言えるのではないかと。これは「正義」を「マインドセット」と言い換えてもよろしい。

マインドセットされた閉じた論理体系では、それ自身が内包する問題の証明ができない

外部からのフィードバックや相互作用がなく、自由な状態でない、ただ単に何かに「マインドセット」した状態では、その状態が正か負か、判定ができません、と言えるのではないか?

現実から主張者(マインドセットされた者)にとって好ましい将来への連続体を現世の言葉で明記する思考方法を正しい議論とし、それに反するものを

「正義の側に立つ者 」
=「マインドセットされた者」
=「意識固定」「認識固定」「言霊自動反応」

とした人間は、その自己矛盾を証明できない、だから、「正義」を証明できないのだから、「正義」の主張は無意味である、という事です。

もちろん、ゲーデルの定理がそのまま当てはまるとは思いませんが、どうも、私にはそう思えるのです。

マルクス・レーニン主義、或いは共産主義思想は、プロレタリアアートという閉じた系でしか考えられない、搾取者と被搾取者という閉じた系でしか考えられないので、その内包する定理=正義は証明できない、と言えるのかもしれません。

マインドセットされた者の心理学(6) 

司馬遼太郎の「坂の上の雲二(文庫版)」の26ページに、「日清戦争とは、なにか?」という記述があります。その中で、

国家像や人間像を善玉とか悪玉とかいう、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしまもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるように思える。

他の科学に、悪玉とか善玉とかいうようなわけかたはない。たとえば、水素は悪玉で酸素は善玉あるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に善玉と悪玉とわける地点から成立してゆくというところにある。

と述べています。これは、明確に記述するのを司馬遼太郎は避けたわけです。なにせ、「坂の上の雲」が産経新聞の夕刊に連載されはじめたのが昭和43年(1968年)。70年安保の2年前。ハッキリとこの、

ある種の歴史科学」 = 「唯物史観

なんて書こうものなら、あの左翼全盛時代ですから何を言われたかわからなかったでしょうね。恐ろしい。

現在は良いのですよ。そういうくだらん左翼はプロ市民とか社民党とか共産党とか、民主党の一部という着ぐるみで細々と生きているだけです。もう何の力もありません。

司馬遼太郎が言っているように、科学に善も悪もありません。善とか悪があるのは宗教の世界です。え?善玉ホルモンとか悪玉ホルモンとか生物学では言っているって?そりゃあ、生物学ではなく、家庭の医学のレベルでしょう?生物学の記述では、あくまで、あるホルモンは老化を抑制する効果があるとか、あるホルモンは癌を誘発する効果があるとか述べているに過ぎません。

マインドセットされた者の心理学(7) 

日本の某県で選挙速報に従事されていたヒダリの女性の嘆きがある所に掲載されていました。

 ・・・(略)・・・

午前1時30分にようやく投票数が確定されたというアナウンスが流れて、家に帰ったのは午前3時をまわっていた。9時から開票が始まって、大きな体育館で30分ごとくらいに選挙区と比例区の得票数がプリントされて、報道各社の席に配られます。それを新聞社の支局宛にiモードで送信して本社のデータベースに送信するのが私の仕事です。

 ・・・(略)・・・

朝日新聞記者と一緒にそれぞれ送信しているので、「自民党 単独で過半数、ほぼ確定」という話を送っているのがもう11時頃には聞こえてきました。笑顔の小泉首相が一面を飾った明日の新聞紙面が目に浮かんでどっと疲れが出てきました。もう日本はおしまいだ、と絶望感がこみあげました。

もう日本はおしまいだ

過度の危機意識というのは妄想を産みやすいものです。家庭に対する危機意識で、子供が両親を刺殺することがあります。会社の社長が危機意識のために自殺することがあります。危機意識をバネにその危機を打開出来る人と打開出来ない人がいます。その境目は、危機意識が過度に働いて、その他の打開策が見いだせなくなった時です。

危機意識の中で最も危険な物。それは憂国的感情でしょう。子供の家庭に対する危機意識は家庭の崩壊程度で済みます。社長の自殺は会社の破産だけで済みます。しかし、憂国的感情の危機意識が過剰に働いた場合、それは国家の崩壊を意味する場合があります。

過度の憂国的感情を抱いて、それを行動に移してしまう人は思想的狂人でしょう。過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい。

個人で活動しているのならそれはまだ、「もう日本はおしまいだ」という嘆息程度で済みますが、それが組織だって動くとなると、乏しい知識と良識が集団という勇気を与えてくれるものによって吹き飛んで、論理を飛躍させ、行動で自分の情念を表現しようとします。

彼女は妄想したのでしょう ─── 今回の衆議院選挙における自民党の圧勝は、憲法9条を抹殺し、自衛隊の海外派遣を合法化し、戦争が出来る日本国家を形成する第一歩である ─── これは彼女だけの妄想ではありません。日刊ゲンダイなどのイエローペーパーが盛んに煽り立てている妄想を一部で真剣に信じる人達がいます。

 自衛隊はもどれない。
 9条はどうなるのか
 米軍基地は減らない
 アジアの国と仲良くできるのか?

 ・・・(略)・・・

日本が占領していた、朝鮮半島から動員されて、炭坑などで過酷な労働を強制されたり(318、546)、各地の工場でただ同然で働かされて、多くの人が死んでいった。日本人で同じ仕事をしていた人の2倍も死者がいた。厚生省に把握されている人数が667、684人。

最初は日本で働いた方が良い収入が得られるといった言葉に騙されて自らきた人たちも、いたそうですが(1939年ごろ)、1944からは無理矢理つれてこられる人が大部分になっていったという話を聞きに行ってから仕事に行ったのです。朝鮮半島内で無理矢理働かされていたひとが409、929人、慰安婦にされた人数は10万とも20万1千。(「従軍慰安婦資料集」大月書店1992年)

家が貧しい少女たちに、工場で働いて、学校にも通える。という就業詐欺のかたちで行われて、男尊女卑で、男の子さえなかなか学校に通えないましてや女なんてと親に言われていた貧しい農村部の少女達が狙われたのだそうです。小学5、6年生からそれよりちょっとうえくらいの少女達が。騙されてついていった。

 ・・・(略)・・・

それなのに経済以外の協力はするつもりもない。そして、経済制裁をしろという日本人。それなら、どこでどうして死んだのか、連行された方々の遺族に知ってるだけでも教えないのでしょう。厚生労働省にはすべてではないけれど亡くなられた方の資料が残っていて、遺族の方が希望すれば、調べられる方もいるのだそうです。

北朝鮮の脅威を言う前に真実を教科書に載せて欲しい。

がっくりして力が出ない、●×▼子でした。

突然、彼女の妄想は日本の朝鮮の植民地経営の過去に飛びます。とりとめがない。しかし、これも過度の憂国的感情のなせる技だとすると良く理解出来ます。心優しい人なのでしょうが、過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい。

こういう方々を単に左翼、サヨク、左、ヒダリと呼ぶのは適切ではないですね。

戦後のアメリカの占領により、日本にアメリカのリベラリズムが大量に出回りました。で、アメリカのリベラリズムというのは端的に言うと、「弱者に味方するお節介」ということです。それに、GHQが後押しした共産主義・社会主義思想が流入して、それらが渾然一体となったのが日本の大衆的左翼的雰囲気だと思います。

その大衆的左翼的雰囲気の中で、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しい人が集団のプロパガンダに乗せられると、60年・70年の安保騒動のようなことになりますし、それらの形骸が未だに現在のプロ市民の形で残っています。

北朝鮮の脅威を言う前に真実を教科書に載せて欲しい。

過度の激しい憂国的感情の割には、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しいので、視野狭窄を起こしているようです。

自分が知っている、と言っても単に「従軍慰安婦資料集」(大月書店1992年)という本で読んだだけの知識で、その数字だけを書き上げて、それを小中学校の教科書に載せろと主張しています。それが「真実」と言っていますが、何が真実なのか?というのを理解しているのか?歴史という文脈の中で何をこの事実(真実などありませんね)が語るのか?その前の歴史的事実、さらに前の歴史的事実、その前の。。。と連綿とした流れを教えずして、これらの事実だけを抜き取って教えて、さて子供にどのような影響が出るのか?知識と良識が極めて乏しいので全く解っていないようですね。

別の憂国の士の発言で、

> 息子はおれらが戦争にいくかもしれないのに
> なんで選挙権ないの?不公平だ。と言いました。

ほんっとに、そうだと思います。息子さん、えらいっ!

> アメリカでは16歳で車の免許を取れるとか
> だったら選挙権もくれたっていいんじゃないでしょうか。

あのね、たしかブラジルの人が、ブラジルでは義務化されていて選挙権は18歳以上だけど、申請すれば(希望者は)16歳から投票できる、と言ってました。

という微笑ましい発言も見られます。親が3人組的だと、子供も本気で自民党圧勝で「おれらが戦争にいくかもしれないのになんで選挙権ないの?不公平だ」などという考えになってしまうのでしょうね。

自民党が勝つと、徴兵制度が復活し、日本は軍国主義の道を再びたどる

そう親が子供に教えているのでしょう。

過度の憂国的感情を抱いて、それを秩序立てる知識と良識が極めて乏しく、それを行動に移してしまう人

それは左翼的傾向のある人。。。いやいや、本当の左翼思想人に失礼ですね。言い換えましょう。

この思想行動、言ってみれば思想的狂人は、3人組的思想傾向の人に限りません。過去にもいたじゃないですか?ただ、違いは、プロ市民組織、3人組はなんらの力もなかっただけで、もしも、軍事力とか政治的ポジションという武器を持てば同じことをした過去の人間達が。 ─── 515事件と226事件の青年将校共ですよ。それから、ゾルゲ事件で日本国を売った売国奴の尾崎秀実などもそうですね。コミンテルンを信じて、満州経営だけで満足していた日本国に、北への侵略の恐怖から、南方経営とアメリカへの宣戦布告を内閣に吹き込んだ馬鹿者。同じ類の人間です。

極右も極左も、この点に関しては変わりがありませんね。だから、左翼と右翼は対置関係にあるのではなく、同根異幹であるのではないかなと。

正義の側に立つ者の心理学(1) 

正義、大義、と使われてますが、どうも字が違うのではないかと思います。

正義
1.道理にかなっていて、 正しいこと。

【大義】
1.人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道。
2.国家・君主に対する忠誠

「このイラク戦争に正義はあるのか?」

とか、

「このイラク戦争に大義はあるのか?」

というのは、

「このイラク戦争に道理にかなっていて正しいことはあるのか?」

とか、

「このイラク戦争に人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道はあるのか?」

と問うていることです。

が、

この正義とか大義とかは、人間個人の生き方で主張するもので、さて、国家と国家の問題で、「道理にかなっていて」や「人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道」などと言うことが問えるのか?と思います。

国家というのは、化け物みたいなものです。操縦する人間によっても(ヒトラーのように)、構成する国民の偏差によっても(昭和の初めの戦勝提灯行列の日本人のように)、どこへ行くのかわからない、操縦しがたい物です。これに対して、正義だ、大義だ、と人格のある物のように言ってもしょうがないことです。こんな正義だ、Justiceだ、大義だ、 The Noble Cause of Peaceだ、などと言っても、仕方がないでしょう。

国家に人格はありません。これを使い出したのは誰だったのか?海外では、アメリカの反戦主義者が使い出したのでしょうか?それともブッシュ陣営なのか?日本では、菅民主党党首だったような気がします。

日本人が正義とか大義とかを言う時は、大義名分、という言葉になるのかな?

「大義名分」だと、どうもテレビの水戸黄門の悪玉が、正体の知れていない水戸黄門に、「お上の意を受けての大義名分がござる」と言うみたいに、ネガティブな、言い訳めいたイメージがあったのでしょうね。大義という言葉が使えるとして、現代の大義というのは、「全人類が納得できる物」なんでしょうな。それを「新秩序」なんて事で、有史以来、勝者が敗者に対して打ち立ててきたのが、大義。やはり、事前に使う言葉ではなく、領地、政治体制、富などが戦争などで変更されて、その事後に勝者によって使われるのが大義の通例だったようですね。

そう考えると、第2次対戦には負け、戦後60年経っても、戦後大義の大本の国連での敵国条項は削除されず、安全保障理事会常任理事にもなれず、国に政治力もなく、圧倒的な経済力も失って、多くの国民はひとつの言語しか解せず、他国の事情などマスコミによるしか理解できない、こういう日本国なるものは、大義を叫ぶにはあまりに弱々しい。せめて、大義名分を国連に付けてもらうのが関の山、でしょうな。

第2次対戦前は、連戦連勝、勝者の大義がありましたが、戦争に負け、東京裁判で全否定され、もう、大義のよりどころとしては、アメリカ他戦勝国が設立した国際連合(United Nations:連合国、連合国家群)しか残っていない、という情けない現状です。

日本のような負け組が大義だ、大義だ、と言っても誰も聞く国、聞く国民はいないでしょう。日本国民以外には。これは、次に何か起こるまで、そして、そのときに勝ち組になるまで、「国家間の」大義なんて言葉を使わないで、冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求するほかないでしょうな。

大義だ、なんて事を叫んだところで、大義を具現する、新しい秩序を打ち立てられる「力」は日本国にないのですから。力とは、軍事力でもいいですし、政治力でも経済力でもいいですが。

その政治力がないとかで、政治家とか官僚を責めるのはお門違いというものです。政治家、官僚といっても、日本国民に代わりはないのですから。彼らに力がないと言うことは、国民の能力がない、ということ。つまり、彼ら、政治家・官僚は、日本国民から抽出された人間なのですからね。

じゃあ、どうするんだって?

テレビの水戸黄門じゃあるまいし、いつまでも善玉、悪玉論争をしていないで、冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求する行動するだけ。善玉、悪玉の2元論をいつまで言っていてもどうしようもない。一歩一歩が具体的で実際的なことをするほかはありません。難しい行動ですが、水戸黄門的善玉・悪玉2元論を忘れて、国民が努力する他ありませんな。

正義の側に立つ者の心理学(2) 

冷徹に積分値としての日本国の利益(どちらに転んでも得する)を追求する行動するだけ、なんて合理的なことが日本国民にできるか、というと、これまた難しい。人間にはカタルシス*が必要だってんで、戦敗国コンプレックスと個人的コンプレックスを解消するために、どうも「正義の側」につきたがるんですな。

正義の側についていれば、気持ちはいいし、カタルシスにはなる。俺は、私は、正しい側だよ、ってんで、安心できてしまう。しかし、正義の確立、大義の確立をするには、何か行動しなければいけません。しかし、それもかったるい、何も行動しないで、正義の側についたというカタルシスを味わえる方法はないものか?というので、レーニンなどが考えついたのが、強いものを攻撃することでした。

これはうまくいきますね。弱い側の人間に限って、コンプレックスはわんさか存在するし、弱いって事は正義で、強いって事は悪で、貧乏人は清貧にして清潔、金持ちは、搾取しているから越後屋だ、絶対悪だよ、という具合です。おまけに、弱きを助け強きをくじく、楠木正成、というわけで日本人が好むパターンですね。もう一つ好きな判官贔屓にもなります。

これって、判断保留、自分で考えなくって良い、アメリカ=悪、ブッシュ=悪、ネオコン=悪、た~んじゅ~ん!私は、善、正義の側、深く考える必要もない、何もする必要もない、というわけです。

それでいいの?それって、正義の側(と自分で思っている方)を支持しているってだけで、自分が正義に基づいて行動している、というわけではありません。でも、正義の味方っぽい気にはなります。

アメリカの誰それも言っている、というのは、アメリカ人が自己批判しているのであって、その論法を日本人が使う、というのはいいのかなあ。アメリカは少なくとも日本と違って、自己批判して、変わっている国です。それを進歩とは言いませんが、少数民族の問題にしても、世界の面倒を見る(それが相手にとって見れば間違って見えようと)という大局に見たがる国で、その国の人間が自分の国を論評したからと言って、その論理が日本人も使えるというわけでもないのではと。

だぁから、時事社会問題「言霊」辞典みたいな考え方、言い方、評論家になってしまうのでしょうな。やれやれ。でも、その判断保留。正義の側に立っているので前文の理由は不要。その理由は聞く「べき」ではない。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。というのは楽だろうなあ。

正義はひとつではなく、ある正義は絶対ではない。その時点の正義が将来の禍になることもある。そして、有史以来、現在まで、正義は勝者の専売特許、敗軍の将兵を語らず、ということですな。有史以来のこの事実、さてさて、いま変えることができるでしょうか?

*自己の直面する苦悩などを表出することによってコンプレックスを解消すること。

正義の側に立つ者の心理学(3) 

日本国の憲法では、3権分立が唱えられています。

立法権、行政権、司法権。

【立法権】
○法を制定する国家の権能。〔立法の手続きは国会が行う〕 ⇒司法権・行政権

【行政権】
○行政を行う権能。 ⇒司法権・立法権

【司法権】
○国家の名において行う、民事・刑事上の裁判権。⇒行政権・立法権
正義の側に立つ者」は、それが左翼的傾向にある人でも、右翼的傾向にある

人でも、司法的傾向が強い方がそうなってしまうようです。

正義の裁き】
○「正義の名において行う、裁きの権利」

とでも言うのでしょうか?

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正義の側に立つ者の心理学(4) 

社民党、共産党が衰退した原因は、本来なら政治政党で、立法・行政の担い手の集団であるはずの組織が、立法・行政よりも、司法の権能、それも、こともあろうに日本国の法に従うのではなく、「正義の裁き」に重きを置いて活動している、その活動に重点を置いているからだとも考えられます。

もちろん、与党の政策に対して立法府で反対する、討論・議論することは、立法の役割です。与党の政策に対して、政策を持って反対するなら、それは立法の場での政治政党の権利の行使であるといえます。しかし、自分の党の政策を示さずに反対というのでは、支持もさがると言えましょう。

例えば、社民党で言えば「護憲」というのが政策だと言われていますが、「護憲」は政策ではありません。日本国憲法に「護憲」という項目はありません。憲法自体には、憲法は国会議員の3分の2の賛成と国民の2分の1の賛成があれば変更が可能だという「改憲」可能な考えを示しています。

では、「護憲」が政策ではないならば、「護憲」とは何なのでしょうか?「護憲」は目標なのでしょうか?目標というと、未来永劫にわたりこの現行憲法を堅持する、という目標なのでしょうか?日本国の状態が、現行憲法が制定された五十数年前の状態から大きく変化しても、世界情勢が大きく変化しても、絶対変更しない、そのような目標が存在するのでしょうか?

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正義の側に立つ者の心理学(5) 

「護憲」というだけでは政策たり得ません。それだけを行っている政党は、立法・行政の役目を果たしていませんから、政党とは言えなくなります。それが、社民党・共産党の衰退の一因と考えます。

「護憲」を行っているだけでは、これは立法・行政の人員を輩出する政党たり得ません。単なる裁きの政党、「自党の主張において行う、裁きだけの政党」に陥ってしまいます。

もちろん、社民党・共産党は「護憲」だけをあげているのではありません。与党や社民党の政策に対抗する政策も提示しています。しかし、マスコミがこの2党に関して取り上げるのは、ほとんど「護憲」に関しての報道です。これはマスコミの取り上げ方が悪いのも一因でしょうが、「護憲」をとりわけ言いつのるこの2党の党運営の欠陥でもあります。

一端「護憲」の錦の御旗を半旗に下ろし、その他の実際的な立法・行政に関わる事柄を全面にあげる、これがこの2党が支持を得る近道でしょう。評論家は予言ができますが、予言・予測の類では、国・組織は運営できません。裁きの声を高らかに上げ続けるだけでは問題は解決しません。

裁きの側に立つのなら、戦後すぐの頃、配給食だけを食べ、ヤミの食料に手を付けずに餓死した裁判官のように、身を清廉潔白にしなければ、裁かれる方が文句を言うでしょう。

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正義の側に立つ者の心理学(6) 

1998年から不思議なことが起こり始めました。1998年以前は2万2千人代だった年間自殺者の数が突如3万3千人になり、以後高止まりをしています。

経済は、その頃からデフレの動きが顕著となり、それ以前から薄々と感じられていた右肩上がりの経済の崩壊が明らかになってきました。戦後日本の学卒-就職システム、いわゆるパイプラインシステムに亀裂が生じ、大学を卒業しても就職の保証はなく、就職しても昇給・昇進の保証はなく、雇用の保障もなくなりつつあります。

大量生産・大量消費型のオールドエコノミーは、他の人間と同じ事をこつこつ毎日やっていれば、パイプラインにのって昇進昇級が保証され、退職金が支払われ、退職後の企業年金が受け取れました。それが90年代を通して、徐々にアメリカ型の能力給制度など、個々人の能力次第ではいくらでも給与アップ、スキルアップできるという、聞こえはいいですが、用意ドンで、みんな同じスピードで出世し、定期ベースアップするという制度が崩れてきました。アメリカでは、クリントンがニューエコノミーの勝利、不況なき経済を誇っている頃でした。

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正義の側に立つ者の心理学(7) 

なぜ、テロリズムを撲滅しなければならないのでしょうか?戦争もしかりですが、戦争の前にテロリズムを撲滅する必要がありそうです。

テロリズムは、必ず、何かの名において自己正当化し、闘争という名の下に非戦闘員まで巻き添えにする暴力行為を行うものですが、国家間の戦争はその当事国の政府・国民のエゴが入るとはいえ、テロリズムよりもはるかにコンセンサスは取れているのでしょうね。

戦争も、非戦闘員を巻き添えにします。しかし、建前として国家の威信なるものがかかっています。そうそう無差別攻撃ができるものではありません。ところが、テロ行為は何かの名において自己正当化しますが、その実態は国家という認知された存在と違い、国際合意の水面下に潜む物です。自己正当化しても、その存在が認知されたものではありません。「威信」「体面」がない存在ですから、非戦闘員も巻き添えにした無差別攻撃が平気でできるわけです。

おまけに、資金力さえあれば、「~の名において」という名乗りは自由で手続きなく宣言さえすればいい。誰でも彼でもやる気にさえなればできてしまう。そして、自己正当化されているわけですから、目的のためには手段を選ばず、ということとなります。

過去、以下のような宣言をして、無差別テロを繰り広げた組織が数多くありました。

★世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。
★世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等なイスラム社会を築くための闘争である。
★チェチェンをロシアの帝国主義な抑圧から解放し、平和で平等な民族主義社会を築くための闘争である。
★北朝鮮をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。
★・・・

何でもいいわけです。「~の(強者の)抑圧から解放し、平和で平等な~の社会を築くためには」何をやっても許される、それが、女、子供、老人などの非戦闘員、文民を巻き添えにしたとしても、ということです。

これらの闘争で言えるのは、「平和で平等な○○」のビジョンは曖昧模糊、まずは倒すのが先決、ということ。

本来なら「平和で平等な○○」はこういうものだ、○○を築くためには××する必要がある。「~」の規則・主張はこれらの事をするには適した考えだ。相対する「アメリカの民主主義」とか「ロシアの帝国主義」はこの運動を阻止する存在だ。だから、「~の名の下に」××したいが賛同できるか?賛同してそれが多数ならばその方針でやりましょう。という手順を踏むのが順当でしょう。

「平和で平等な○○」はこういうものだ、というビジョンは後回し、という事です。まずは「~の名の下に」憎むべき相手を倒すのが先決。ビジョンの提示、というかビジョンがないまま、倒すためだけに「~の名の下に」を利用する、という事ですね。これは、「本末転倒」はないですか?

こういった「正義の側に立つ者」に限ってビジョンという具体的な肉付けができる能力に欠けるので、抽象的にアジテーションするしかない、という事なのでしょう。才能のない者の努力は虚しい。

この闘争だけなら、闘争地帯の人間が殺傷されるだけです。しかし、過去例があったように、必ずテロリスト達は、相対峙して反目しあう組織を担ぎ出します。

冷戦時代に、アメリカとソ連が対峙し、自己の勢力伸長をはかっていました。そこに、アメリカそのもの、ソ連そのものと関係ない組織、第3者、第3国であるテロ組織やテロ国家が、「世界をアメリカの民主主義的な抑圧から解放し、平和で平等な共産主義社会を築くための闘争である。」と称してテロ活動をする。そうすると、冷戦時代にアメリカは、そういったテロ活動の背後にソ連がいるという疑心暗鬼に陥りました。

逆の話で、民主闘争が共産主義国家内で行われる時、ソ連はアメリカが背後にいるという疑いを持ちました。第3者、第3国であるテロ組織やテロ国家は、アメリカ、或いはソ連という国家を利用して、実は自分らの自己正当化の目標を遂げたい、というただそれだけのためにテロを仕掛けているだけです。

しかし、アメリカ、ソ連は、それを相手が背後にいて仕掛けたものと勘違いします。もちろん、本当に背後にいたケースも多々あります。

幸いにもエスカレーションは阻止できましたが、阻止できなかった場合、それが第3次世界大戦にエスカレートした危険は存在しました。第1次世界大戦の勃発が、オーストラリア皇太子の暗殺というテロ行為から始まったのが良い例です。

つまり、テロ行為がテロ行為として地域限定であれば、他地域の人間は他人事で済みますが、得てしてテロ行為は、波及効果で、「~の名の下に」という「~」に所属している国家を巻き添えにして、その相対峙する国家との闘争、それも今度は、名乗りを上げた「戦争」にエスカレーションします。

テロはそういったエスカレーションの可能性を持った行為です。戦争もしかりですが、戦争の前にテロリズムを撲滅する必要がありそうです、というのは、こういうわけです。

例えば、

★日本に真の国民主権社会を築くために天皇制を打破しよう。

なんて、「日本国民の名の下に~しよう」などという主張は、これだってテロ行為に近いですね。

日本国民という曖昧模糊とした存在(逆に曖昧模糊とした存在の方が利用しやすい?)を利用して自己の目的を達したいのですから。自己の主張する国民主権社会が、現行のシステムよりも優れている、国民の多数にメリットがある、というのならば、まずその定義、ビジョンを明確にして、現行のシステムよりもメリットがある、というのを明確にする必要があります。

その上で、天皇象徴制度のデメリットを述べ、それをもって、選挙という正規の手続きを踏めばよろしい。それとも、それが説明できない、多数派を形成できる自信がないので犬の遠吠えを繰り返しているのでしょうか?

この主張をテロ行為でなくすためには、正規の選挙手続きを経て、政権を担い、多数派を形成し、国会議員の2分の1を掌握し、国民の2分の1が賛成するように憲法を改正し、その上で天皇制を廃止すればよろしい。

その手前はおろか、国民の合意を受けない少数意見(国民の半分以上が天皇制廃止と言ってない以上少数意見ですね)の状態で、「日本国民の名の下に~しよう」など主張する事は許されません。

何かの権威を、抽象的な曖昧模糊とした存在を利用して、正義の名の下に、自己主張を遂げる行為をするなどといった事は、これはテロ行為と同様な事です。

劣化ウラン使用という名の下に、アメリカの現政権を非難するとか、イラク派遣の名の下に、日本の現政権を非難する、というのもトリッキーな行為です。

劣化ウラン使用は、劣化ウラン使用として判定する、イラク派遣はイラク派遣として判定する。その判定の元に対抗案を具体的に主張し、そして、アメリカの現政権が間違っている、政権の名に値しない、同様に、小泉政権が間違っている、アメリカ追随だ、というなら、正規の選挙手続きでその政権を倒せばよろしい。

なんでもかんでも、自分の主張に結びつけようという行為は危険です。違憲だ、違憲だ、というのも、憲法の名の下に主張しているだけですね。違憲の証明をする説明、行為、提訴をしないで、違憲も糞もあったものじゃない。

手順を踏んで違憲証明を行うのが、それこそ憲法という原則に書いてある事ではないですかね?違憲だ、などと証明(判決)抜きで主張する行為こそ、エホバが「神の名をみだりに使うべからず」と言った事の轍を踏んでいる。何かに名を借りて、何かを非難する、行動を正当化する、というのは、こんな危うさを秘めているものではないでしょうか。

正義の側に立つ者の心理学(8) 

私が大学生であった1980年代前半に、ネットの世界があったなら、ネットの世界は発言する大学生、高校生であふれかえっていたことでしょう。1970年代でも同じ事が起こったと思います。

今見回すに、MLなどの討論形式の世界は、20代は数えるほど、30代、40代が中心になっているのでしょうか?50、60代の方もおられますね。ところがネットに接続する世代構成としては20代や30代前半が多いのでしょうか?

MLなどの世界で、比較的世代構成が若いたぐいのMLはというと、組織力の力なのでしょうか、左翼系のMLは20代が多く見受けられます。もちろん左翼系ですから(右翼系でも話は同じですが)、「正義の側に立つ者」の心理を惜しみなく発揮しています。これは宗教系MLなどでも同じ事なのですが、宗教の場合、極めて個人的なことを、科学論理ではない普遍の物に昇華するのが目的です。「正義の側に立つ者」というか、「神の側に立つ者」になりたい、或いは「神の側に立つ者」になっている者の討論の場所であり、討議の内容も、個人的な話であっていいわけです。

しかし、社会活動を行う左翼系、或いは右翼系MLに、宗教系のような形態が導入されてうまくいくはずはありません。個人の話ではなく、社会活動の話をするのが目的ですから、そこには普遍性も絶対性もないはずです。無謬の存在もなく、社会の流れに沿って、議論の流れも活動の流れも変わってくるのが本来の姿です。

ところが、そうはなっておりません。社会への鬱屈、不満が、アメリカの現政権、イラク問題、日本の現政権である小泉政権に向けられ、それらの意見の大半は、策を建てる、策を練る、策を実行するのではなく、今施行されつつある政策を批判することに向けられている。評論の類でしかない。実行することは唯一デモ行進のようです。

これは、もしかすると個人的なカタルシスを代償する行為なのかもしれません。本来は宗教に向かうべき悩みが、反戦運動なり、反米運動に向かう。左翼系組織としても、そういった人間でも支持者、義援者になるのですから、取り込まないといけない。しかし、事実は、社会の話ではなく、個人のカタルシスにしかすぎない。

過去、カタルシスが存在するとき、それは、社会的な競争にそのエネルギーが向ゥいましたが、運動会で順位すら付けない社会に陥り、競争は悪であり、平和が善でなってしまった。成功者は羨むべき存在、到達すべき目標ではなく、「収奪」などのを行う「絶対悪」の存在と規定されます。そして、自分が社会的弱者であるのは、個人的な理由ではなく、社会の構造的理由が原因だとなる。

そうすると、個人的なカタルシスであるにも関わらず、社会的な原因も包含すると誤解しているわけですから、宗教に向かわず、社会的な行為、それも「正義の側に立ちたい」側にエネルギーが向かってしまうのではないかと。

日本が競争社会であったのは過去のことのようです。現代の若者はは、少数のマニュアルを作るグループと、大多数のマニュアルに従うグループに2極分化しています。フリーターというように夢は見続けているようですが、大多数の夢が実現するような社会であるとは思えません。後者は、競争のとば口で端から諦めているような気がします。前世代である我々は、現世代を生み出したことに鬱々としているのかもしれません。これはまだ序の口なのでしょうか?

時事社会問題「言霊」辞典1 

マスコミ語小(笑)辞典」というサイトがあります。皮肉たっぷりで、面白いので、通して読んでしまいました。私も「時事社会問題『言霊辞典」を作ってみました。日本国民はTVの「水戸黄門」の見過ぎでしょうか?世の中には、「善玉」と「悪玉」しかいないようです。

◆「~すべき」
考えるべき、やるべき、などの断定表現。前文に理由があり、その後に使う「べき」用法だが、正義の側に立っているので前文の理由は不要。その理由は聞く「べき」ではない。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。
◆「~でなければならない」
正義の側に立ち、現在の状態に不満を持っている様子。前文に理由がある「べき」だが、しばしば理由は省かれる。正義の側に立っているのだから自明の理、ということでしょうか?主語は省かれる。自分が不満を持っている様子を表す語法なので、別に行動は伴わなくても良い。
◆「何々に書いてありました」
あたかもその本の主張が正しいかのような誤解を持たせる引用語法。自分の主張が言葉足らず、勉強不足の時にしばしば用いられる。その後に権威付けの「何々主幹を務められておられます」などという文がつく。もちろん、反動側の人間はまれである。
◆「~していきましょう」
一緒に何かやる、というのが本来の使い方だが、行動が伴わない語法の一つ。主語を伴わないで用いられることが多い。新婚家庭からの葉書に「お近くにお越しの節は是非お寄りください」と書いてあっても、本当にその家に寄ってはいけません。「~していきましょう」と言われても、本当に「~して」はいけません。言っている本人は行動に移すつもりはありません。修辞語。
◆「~させましょう」
誰かに何かさせよう、というのが本来の使い方だが、行動が伴わない語法の一つ。誰が主体なの?「~していきましょう」と同じ。ファイト!などのかけ声の一種と思った方がよい。
◆「ドロ沼」
あたかもずるずる行ってしまうさま。将来のその出来事は暗いと主張したいときに使う用法。が、予想になっておらず、予言の類が多い。定性的な語法。

時事社会問題「言霊」辞典2 

◆「弱者」
もう文句なく助けなければいけない対象。涙を誘う存在。定義はなく、抽象的な存在と思われる。「妖精」と同じで、存在が疑われる。
◆「イラク」
湾岸戦争前までは、ただ石油がでる国、とだけ日本人に認識されていた国。アメリカが関与した途端急に注目を浴びるが、いかんせん、勉強不足で、現在、どんな国なんだぁ?と学習中。学習中なのだが、「イラク」そのものを知らないでの発言は多い。
◆「トルクメニスタン」
まだアメリカが直接関与していないので、ヒダリのプロが、「ああ、例のアフガンパイプライン計画」と思いだし、「アフガン戦争」+「アメリカの利権」と結びつける国。実際は、独裁国家なのだが、「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「チェチェン」
ロシアの関与が主体で「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「アゼルバイジャン」
ロシアの関与が主体で「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「シエラレオネ」
「アメリカ」という言霊が出てこないので興味がないらしい。
◆「ネオコン」
プロレスで言う悪玉。「新保守」よりも「ネオコン」の方が悪のイメージが強いので使われる。力道山のプロレスショーで、カタカナの外人レスラーが「悪玉」、漢字名の日本人レスラーが「善玉」と売り出した時からの名残。
◆「ブッシュ」
プロレスで言う悪玉。石油利権の巨頭(?)それほど金に困っているらしい。しかし、アメリカの大統領は名誉職で金のあるヤツしかなり手がなく、日本国首相より手取りが少ないことは誰も言いたがらない。
◆「アメリカ」
プロレスで言う悪玉。冷戦時代は善玉と考えていた人もいる。冷戦時代から現在まで続けて悪玉と考えている人は、ヒダリっぽいので要注意。アメリカといっても、合衆国で、合州国ですから、州が違えば国が違うほどの違いもあります。それを言えば、「中華人民共和国」も「中華人民合省国」と言ってもいいか?現在、アングロサクソンの人口が減少中。州によっては有色人種の人口が白人種よりも多い。アメリカの会社だって、CEOはインド人なんて会社がゴロゴロあるが、WASPのイメージで語られる。白人種以外の人間が大統領になれば、扱いが南アフリカ共和国並になり、言霊の威力は落ちる。でも、やることは同じだけどなあ。

時事社会問題「言霊」辞典3 

◆「NPO、NGO」
プロレスで言う善玉。NPOとNGOは明らかに違うのだが、マスコミによって同じ存在とされた。NGOは、本来は「国連認定」の接頭語がつく。しかし、政府組織でなければNGOと言われることもある。NPO(非営利組織)は、利益を将来に持ち越さない株式会社の変形。NPOの構成員でしっかり高額の給料を得ているNPO組織もある。個人的な営利には目をつぶる。ボランティアで無給と勘違いしている人が多い。
◆「国際機関」
プロレスで言う善玉。しかし、各政府からの出向者も多い。途上国は政府職員の給料削減目的で利用する場合もある。数あるオーナー国でもっとも評判の高い国は日本。金は出すが口も職員も出さない。日本人ってダメですねえ。
◆「国際連合」
プロレスで言う善玉。国連と通称。国際連盟と勘違いする人間もいる。日本にばかり予算をたかる組織。それでも敵国条項は削除しない。世界政府ではないのに世界政府と勘違いしている人も多い。一番偉い人は事務局長。Secretary-Generalという名前ですので、何だ?秘書の親玉か?というぐらいで、国連総会議長でも、安保理議長でもないのに、何かと期待が多い。予算の無駄も多い。地球外知的生物監視団が、ETのコンタクトに備え24時間監視をしている。発見後は国連事務総長に速やかに通報されるらしい。日本の予算が一役買ってます。日本偉い!パチパチ!

時事社会問題「言霊」辞典4 

◆「大義」
しばしば日本語変換の間違いで「大儀」と書かれる。
「1.人間として踏みはずしてはならない、最も大事な道。」
「2.国家・君主に対する忠誠」
が本来の意味だが、2の意味で国家・君主が出てくるので負の意味で使われる事が多い。民主党の、国連安保理の議決があれば自衛隊のイラク派遣は問題なかった、という主張は「大義名分-他に対してうしろめたさを感じないで、何かをやってのけるだけの恥ずかしくない理由」を必要としていることらしい。
◆「大儀」
日本語変換が「大儀」になってるよぉ~。大儀であった。
◆「テロ」
ヒダリの人は使いたくない用語。テロではなく、ゲリラ行為と呼びたいらしい。「テロ」では非政府組織による行為であり、「アメリカに対するテロ行為」では、あたかもアメリカが非合法の攻撃を受けている印象を与えるので好ましくない。「ゲリラ行為」なら、存在するか存在しないかわからない反動アメリカに対する非確認政府組織が存在するかのような錯覚を覚えるので好ましい。

時事社会問題「言霊」辞典5 

◆「脱北者」
「難民」と類義語と思われている。しかし、北朝鮮国内ではアッパーミドル以上が「脱北」できる、という何でも金!という点が忘れられている。単に「弱者」と思っている人も多い。
◆「国益」
「国」、「国家」が関連するので負のイメージで使われる言葉。実際は、「国益」に関係なく血を流す「原則」を重んじる国がアメリカで、「国益」を重視する国が日本なのだが、イラク戦争以降意味が逆転したらしい。
◆「イスラム」
判断に迷う言葉。以前は「弱者」側でアメリカに搾取される側だったので文句なく「善玉」だったのが、国際テロネットワークをやりだしたので、単に「弱者」という範疇に入れられなくなり、扱いに困っている。
◆「天皇制」「自衛隊」「平和憲法」
触れてはいけない禁断の言葉。「象徴」であり、具体的な定量的な存在としては意識されない。
◆「自衛隊」
特別国家公務員。民間人は死んでもニュースにはならないが、この「特別」国民が死ぬと、政府が倒れ、外交姿勢が崩れる。特別な存在。イラクでは最高日当3万円をもらえる。戦争はできないが軍隊としての体制は整っている。自衛できるかどうか定かではない。非常時に一般道路を戦車が走ろうとすると、各自治体は苦情を言い警察に逮捕される。逮捕されないように法整備中。
◆「天皇制」
最近は影が薄くなった存在。天皇家の人格が言霊としての迫力を不足させている。過去の三笠宮の失言などのようなバックアップが必要。
◆「違憲」
誰でも最近は使える言葉。しかし、その憲法自体が「違憲」判定できるのは裁判所だけだと書いているので、この言葉を常用するのは「イケン」ではないか?
◆「日本国憲法」
二桁以上の項目はほぼ読まれない可哀想な文書。何条まであるか知ってますか?9条で終わりじゃないですよ。

時事社会問題「言霊」辞典6 

◆「国連派遣軍」
なんでかなあ、自衛隊じゃあいけないのだろうか?国連派遣軍は戦闘装備を持つか、持たないか、そこのところの議論はナシだよね、紛糾しますから。でも、指揮権を放棄して国連に指揮委ねる、なんてなんとも心地よい響き、陶然としちゃいます。間違っても、韓国や中国の軍隊出身者が指揮官になりました、なんて、もしもそうなっても、派遣撤回、などと言い出さないように。白人なら良いっての?それは人種差別というのですが。。。
◆「不合理」
本来は、論理的必然性を欠くなどして、道理に合わないことの意であるが、言霊の場合、自分の主張の理屈に合わない様子、そして、自分の主張が実現する望みの全く絶えた限界状況の時使われる。不合理と不条理を混同して使用される。
◆「不条理」
本来は、事柄の筋道が立たないこと(哲学では、人生に意義を見いだす望みの全く絶えた限界状況を指す)の意であったが、不合理との戦いに敗れ、不合理に意味を吸収された。トホホ。死語に近い。語感として、「条理」よりも「合理」の方が「合理性」という変な言葉からして、格好がよさそうなのである。フランス哲学は死んだ。
◆「機会」
opportunity(偶然の意味は含まれない→努力してつかんだ機会)、chance(偶然の意味が含まれることがある→偶然得られたチャンス、棚からぼた餅だよぉ~)が都合良く使い分けられる。本来は、学生には、opportunityを与えるべきだが、PTAがうるさいので、機会均等とは、抽選、と同じと言うこと。運動会で、順位を付けずに、みんな一緒にゴールインも機会均等とされる。馬鹿なだけじゃん!
◆「均等」
協同と似たような語感。みんなで一緒にやりましょう!みんなで一緒に分けましょう!ということ。ただし、抜けると後が怖い。生活協同組合の共同購入で欲しくもないけど、抜けるとおばさま方に睨まれる、といのも機会均等だねえ。共産主義万歳!
◆「平等」
機会の平等。自分の都合の良いときだけ使う言葉。金持ちはモノポリーゲームの勝者なので、この平等の原則からははずされる。ほぼ、負け組に使われる用語。
◆「環境問題(狭義)」
広義の環境と狭義の環境の二つの意味がある。狭義の環境問題の場合、自分の周りの環境は変えたくない、原子力発電所・ゴミ処理施設・リサイクル施設・賭博場・高速道路誘致絶対反対!でも、電気は送ってね、ゴミ収集日が減るのはいや、物のリサイクル推進、たまには競馬にも行きたいね、車はたまにしか乗らないけど、一家に2台持ってます、なんて運用のされ方をする身勝手な言葉。
◆「環境問題(広義)」
広義の環境と狭義の環境の二つの意味がある。広義の環境問題の場合、TVなどで氷河の融解をやっていたり、地球温暖化現象の特集があったときだけ思い出される言葉。でも、漠然としていて理解されていない。温暖化ガスとオゾン層破壊ガスの区別が付かない人が、よく使う言葉。地球環境を守ろう!って、こら、デモの人、カップヌードルの容器を投げ捨てないように。

神道と天皇制を考える(3) 

次に原発の事に関して書かなければいけませんので、突然、続き物の(3)から始めます。

このシリーズ、私は何を言いたいのかを整理してみます。

1.神道の起源は、天皇家が日本に来た弥生時代よりもずっと古い。
2.天皇家が神道に結びつけられるのは、天皇家よりも古くからある神道(山岳信仰、怨霊信仰)を簒奪・憑依したものであり、天皇家が神道を創設したわけではない。
3.現存する神社のほとんどは、天皇家とは縁もゆかりもないものである。
4.古代において神社を総覧した天皇家は、中世・近世においてその力を失ったわけであるが、それが慶応4年から再度その力を盛り返したのであり、中世、近世も含めて天皇家が神社を総覧したわけではなく、断絶している。国家神道という概念も慶応4年からはじまった新しい概念である。

など、まだ整理していませんが、ここら当たりをつらつらと述べてみたい。しかし、もちろん、一技術者で、日本史の専門家でも宗教の専門家でもありませんので、間違いがありましたらご指摘下さい。

また、

このシリーズで天皇制批判をするわけではありません。我々の意識として、いつもくっついていて離れない、神道と天皇、或いは天皇制というものが、本当は別物であるということを述べてみたいだけです。つまり、たった千数百年か二千数百年かわかりませんが、朝鮮或いはツングースから来た天皇家が神道を創設したのではなく、神道というのは縄文時代からあり、弥生時代に受け継がれて、今日に至っている日本民族独自の宗教形態であり、大陸から来た天皇家はそれを簒奪・憑依しただけであることを述べてみたいのです。

それから、

神道というと、神社であり、鳥居などの道具が揃っていると勘違いしがちですが、鳥居などというものは、後世付け加えられただけで、それらの神社らしき道具立てが揃う何百年、何千年前から、その場所の由来で、雰囲気で、そこが崇拝されていたということが多い。神社と言っても、神社の道具立てを述べるわけではありません。その起源を述べていきたいと思います。

【自然神と人神】

現在の神社に祀られているのは、自然神と、人が逝って神になった人神です。しかし、人神というのは、どうも弥生時代以降、とりわけ天皇家が神社組織を簒奪・憑依した後に人とこじつけられたような気がします。まだ、気がする、だけでなんの証明にもなっていません。

さて、神社を考えるのに、まず自然神として考えたい。自然神として考えるためには、何故そこの場所が敬われる、或いは恐れられる場所だった(過去形ですよ、過去形)のか?を考えないといけないと思います。

例えば、富士山は、現在の形の富士山になったのは近世の事です。富士山は、40~50万年前の小御岳火山、2~8万年前の古富士火山、そして1万年前に形成された新富士火山の3世代にわたる噴火活動によって現在の円すい形を形づくってきました。新富士火山も、江戸時代の1707年(宝永4年)に爆発的な大噴火をして宝永火口をつくり、東側に火山灰による広大な火山荒原を形成して現在の形になったわけです。縄文時代・弥生時代の人間が見た富士山は、現在とは違った物でした。

私たちは、現在自分たちが見ている地形、海抜で、古代の建造物の地理を考えがちです。ところが、現在私たちが見ている地形、海抜は、完新世(沖積世)の最終氷河期の後何度も変わっています。

1万4600万年前、北海道は樺太と陸続きでしたし、本州・四国・九州は一つの大きな島でした。1万600年前頃、本州・四国・九州が分離し、北海道も樺太と離れてほぼ今の日本列島の形になりました。8900年前頃も同じくで、多少現在よりも日本は大きかったのです。

FI1571655_0E.jpgこれらの日本の面積の変遷は、地殻変動とあまり関係はありません。海水面の上下動に関係があります。つまり、氷河期に形成された膨大な量の氷河が溶けて、溶けた水が海水面を押し上げたのと、氷河によって圧迫されていた地殻がバウンドして、あるところでは押し上げられ、あるところでは押し下げられたわけです。しかし、日本列島の場合は、地殻の動きとはあまり関係がなく、ほとんど海水面の上昇に由来して面積が変わっています。

8900年前から現在までで、現在よりも日本の面積が小さくなった時期がありました。その時期を縄文海進(参考:第7回「縄文の人々と日本人の起源」)と呼びます。6000~7000年前の事です。BC60世紀から70世紀の間ですね。この頃の世界は現在よりも温暖化が激しく、平均温度も現在よりも数度高かったのです。上図は、その頃の日本の海岸線です。

FI1571655_1E.jpgつまり、縄文時代の人間を考える時、現在の日本列島の地図ではなく、当時の現在よりも後退した海岸線を持つ日本列島を念頭に置いて考えないといけないということです。前回話題に出した鶴ヶ丘八幡宮も同じです。(参考:縄文海進-鶴岡八幡宮下まで海-)左図は、縄文海進の頃の関東地方の海岸線です。

また、忘れてならないのは、縄文海進が温度上昇につれて、徐々に比例的に海面が上昇したのか、それともあるとき突然数mも海面が上昇したのかわからないことです。徐々にでしたら、海岸線に住み着いた縄文人は、海岸線の後退につれて住居を内陸へ、内陸へと移したでしょう。その時、文化も無理なく移せたでしょうが、急激な海水面の上昇、この前のインドネシア沖地震の際の津波のような出来事が起きたら、縄文人はかなりの人間が死亡したり、逃げられたとしても、文化を伝える物を持ち出せなかった可能性があります。

さて、縄文海進が終わっても海岸線はすぐには元に戻りませんでした。現在の海岸線(もちろん江戸・明治時代以降の埋め立て地は別として)に戻るのに数千年かかっています。だから、古代の神社が現在内陸部にあるからといって、縄文・弥生時代にはその神社が内陸部ではなく、海岸沿いに創建された可能性もあるのです。

地獄への道は善意でおおわれている 

FI84041_0E.gif以下に述べる事は、私がスリランカの仏教の考えなどを説明している事などに矛盾していると映るかもしれない。しかし、現実主義者である私にとって、こういった事柄もまた現実(真実ではない)なのだという事。だが、このような考えが現実となっている社会が将来絶対に変わらない、という事は言い切れない。願わくは、善意が善意でいきる社会になって欲しいものだが。。。

FI84041_1E.jpg1939年夏、

独ソ不可侵条約が締結された8月21日、明けて8月22日、ドイツ、オーバーザルツブルグのヒットラー山荘(*)に陸海空3軍の軍司令官以上が集合し、高級指揮官会同を持った。ポーランド侵攻に関して討議するためである。その席でヒトラーは、ポーランド開戦、ひいては第2次世界大戦の不可避な事を説き、こう説明した。
(*)ケールシュタインハウス(Kehlsteinhaus)=鷲の巣(Eagle's Nest)

1.【不退転の決意】
各位は最初から西側強国との戦いが不可避だと覚悟すべきだ。フリードリヒ大王は、不屈の精神で最後の勝利を収めた。
2.【目標の把握】
ポーランドの抹殺が第1目標である。新防衛線、新国境線の確定ではなく、敵の殲滅が問題である。
3.【正義より勝利】
開戦のための宣伝的理由は用意する。妥当かどうかは問題ではない。勝者は戦後に真実を述べたかどうか問われない。問題は正義ではなく勝利である。
4.【仮借なき戦い】憐憫の心を閉ざせ、無慈悲に戦え。ドイツ国民8千万人の生存を保障するためである。強者は常に正しい。

(*2)写真はKehlsteinhaus

FI84041_2E.jpgその日の夜、ヒトラーは山荘のテラスに歩み出て、北の夜空に珍しくオーロラが輝いていた。赤から青、黄・・・と虹彩そのままに変色を繰り返して天空から光の幕が垂れ下がり、あるいは風に舞う薄絹のようにひるがえってみえるオーロラの冷たい夢幻の美しさは、思わず「神々の黄昏」という言葉を想い出させた。オーロラを見つめて、ヒトラーはこう言った。

血だ、大量の血だ、今度は流血無しには終わらないだろう。

「妥当かどうかは問題ではない。勝者は戦後に真実を述べたかどうか問われない。問題は正義ではなく勝利である。」こう主張して戦争を、侵略を行う指導者はヒトラーが最初ではなく最後でもない。常に人類は勝者が全てを奪取し、敗者には何も残らない。

人間の行いは倫理に基づく物ではなく、様々な欲望に基づく物である。人間が自分自身で思うほど理知的で論理的で理性的で倫理的な存在であるなら、何故様々な神々が、分かり切った事を人間に語りかけるのだろう?何故ユダヤの民にエホバは十戒などという子供にでもわかりそうな規則を与えたのだろう?

人間は自分で思うほど気高い存在ではない、万物の霊長ではない。

FI84041_3E.jpg「強者は常に正しい」という事である。人類の歴史に於いて、強者が弱者に配慮して何か振る舞った事があっただろうか?強者が規則を作る、勝者が規則を作る。

イラク侵攻で日本はアメリカに盲従することなかれ、という人がいる。イラクに自衛隊を派遣するのは反対という人がいる。だが、日本は世界中でアメリカとだけ同盟関係を結んでいる。国家の安全保障をアメリカという国に委ねているに等しい。しかし、それでいけない理由があるであろうか。世界第1位のGDPを誇る国と第2位のそれを持つ国が反目するよりは同盟を結んでいる方が世界の安定に寄与するのではないか。

それはジョージブッシュがアメリカ大統領だから、という事ではない。誰がアメリカ大統領であろうとも、日本という国家の安全保障をアメリカという国に委ねている以上アメリカの意向に、その時々のアメリカ大統領の意向に大なり小なり従わざるを得まい。それとも、同盟国であるが故にしたり顔で「正義」を唱えろ、と言うのであろうか。物事はしばしば「妥当かどうかは問題ではない」ように動くのに。

日本はアメリカの影響下から離れ、気高い自主独立に向かうべきだ、という人もいる。全くの永世中立となるべきだ、という人もいる。ヒトラーがドイツ軍軍司令官にこの演説をした時、ポーランドも気高い自主独立を誇り、英国やフランスの影響下にあるのを嫌った。英国がポーランドにドイツの侵攻を妨げるためにもソ連のポーランド領域内の通過を許可するように求めた時もそれを拒否した。そして、ドイツ軍がポーランドになだれ込んだ時、英国とフランスは同盟関係にあるポーランドに何もできなかった。同盟関係を結んでいてすら、安寧を貪る事はできない。

第2次大戦以前の状態と現在は違う、という人がいるかもしれない。しかし、人類というものは、「気高い自主独立」、「孤高を保つ」国など嫌いなのだ。仲間に入らない国はどこか不気味に感じるのである。気高い自主独立には、相互・集団安全保障とは比べ物にならない圧倒的な実力、つまり軍備が必要なのである。それが、防衛という名であろうと、抑止という名であろうと。現在の日本にそのような軍備があるだろうか?

歴史とその歴史の妥当性など、その歴史の渦の中に巻き込まれている当人達にはわかるわけがない。よかれと思っている事が、倫理的だと思っている事が、未来の人間には最悪の愚挙に映るかもしれない。倫理を振りかざし、正義を振りかざして、その一元論的な、矮小な視野で物事を判断する事は危険な事なのかもしれない。

「地獄への道は善意でおおわれている」

集中・集中力(1) 

世間でよく言われるのが、集中とか、集中力であります。FRANK LLOYDは、小学校の頃、ガッコのセンセによく言われました。

「FRANK LLOYD君、成績は問題ないのだけれど、集中力が足りない。」

父兄面接で(なんで父母面接と言わなかったのだろうか?今はなんて言っているのでしょうか?)これを聞いた私の母が、「FRANK!授業中は集中しなければダメでしょ!よそ見をしたり、他の子に話しかけてはいけません。」と叱られました。

FRANK LLOYD@Age 8は、この「集中(しゅうちゅう)」するとは、

集中 = よそ見をしない事 + よその子に話しかけない事

と理解致しました。そこで、授業中に、よそ見をしないように、よその子に話しかけないように、黙って、静かに、算数の時間にマンガの本(少年サンデー、定価20円、だったかな?)を読んでいました。すると、ガッコのセンセが、

「FRANK LLOYD!何を読んでいるんだ!マンガなんか授業中に読んではいけないだろ!この問題を解いてみろ!」

と怒られて、黒板の前に連れて行かれて、問題を解くように強要されました。

算数の問題。。。馬鹿馬鹿しい。テ、ッテテテェ~、とチョークを止めることなくサラサラ正解を書いて、トットト席に戻るFRANK LLOYD。ガッコのセンセは、

「FRANK!マンガを読みながらどうやってこの問題が解けたんだね?教科書に載っていないことを説明したんだよ、私は。」とのたまわれます。私は、

「マンガを読んでましたが、センセの話は聞いてました!頭の中で解いたんですけど、それが何か悪かったでしょうか?マンガを読んでいたのは悪かったでしょうが。。。」

「と、とにかく、正解だ。マンガは授業中に読まないように。授業に集中して!」

とこう言われて授業を続けました。

・・・

つまり、「集中」というのは、

集中 = よそ見をしない事 + よその子に話しかけない事

だけではなく、

集中 = よそ見をしない事 + よその子に話しかけない事 + マンガを読まないこと

ということだな、とFRANK LLOYD@Age 8は理解致しました。それだけか?疑問。。。。

そうか、つまり、わからなくても、わかっても、どっちでもいいから、熱心に聞いている振りをすればいいのだ!これが「集中」ということなんだな!わかった!と納得!

それから、幾月日が経ち、その間、何度も何度も、集中しなさい、集中力を鍛えなさい、と言われましたが、FRANK LLOYD、年を取ったのでやっと理解できてきました。

誰一人として、集中とか、集中力とか、具体的にどうするかを理解していずに、ただ単に、言葉をはいていただけなんだ!と。

ある人間にとっては、

集中 = 聞く姿勢とか、見る姿勢とか、見てくれだけの事

であり、集中するとはどういうことかということを、FRANK LLOYDのセンセ達も、両親もだぁ~れもわかって言っていないで、集中、集中と連呼していただけなのね、とわかったのです。

では、集中する、って何?

集中・集中力(2) 

ガッコのセンセに言われたことを思い出しましょう。私は何をしていたか?まず最初は、授業に身を入れずに(そのように見えた)よそ見をしていた事。次に、よその子に話しかけて、よその子の授業の邪魔をした事。それから、算数の授業中にマンガの本を読んでいた事。それで、ガッコのセンセは、

FRANK!君は集中していない!集中力が足りない!授業に集中しなさい!

と言われました。しかし、サンスの問題は別に滞りなく解けました。サンスのテストはいつも満点。幼児の頃はね、お勉強できましたからね。それはそれで集中していたんですね。授業を受ける姿勢は問題ありでしたが、授業をおとなしく(センセの求めるとおりに型どおり)受けている子供たちより理解は深かった。よその子は、あたかもセンセには集中して見えたのにね。

つまり、

センセの言う集中とは、授業をおとなしく聞きなさい、という集中だったんですね。他の子の邪魔、センセの授業進行を妨害しないようにしなさい!という意味の「集中」。

そんなの集中って言葉であらわすもんじゃないじゃん?!

英語では、一応(?)、「集中」は「concentration」と訳されています。

concentration
━━ n. 集中, 専念; (精神の)集中力; 集中[集結]したもの; 【化】濃縮, 濃度; (トランプゲームの)神経衰弱.
concentration camp 強制収容所.
concentration cell 【物・化】濃淡電池.
concentration ratio 集中度[率]

この意味から思うに、どう見てもガッコのセンセは、私に「(FRANK LLOYDの精神の)集中」を促したのではない。センセは、「集中[集結]したもの」の意味、つまり、「俺の授業を中心に生徒ども集結せよ!」と叫んでいただけですね。だったら、英語で言うところの、

「Attention!(注意!)」

といえばよろしい!個人に使う意味がほとんど(英語の場合ね)のConcentrationではなく、

attention
━━ n. 注意, 注目; 注意力; 考慮, 配慮; (pl.) 世話, 親切, 心尽し, (礼にかなった)ふるまい.
Attention! ((号令)) 気をつけ!
call away the attention 気をそらす.
come to [stand at] attention 気をつけの姿勢を取る[をしている].
for the attention of (手紙が)…宛(あ)て.
pay attention (to) (…に)注意をはらう.
with attention 注意して; いんぎんに.
attention deficit disorder 【医】注意欠如障害

つまり、「注意散漫!注意力がない!」といえばよろしい。なぜ、「注意」という言葉を使いたがらなかったのだろうか?戦前は、「集中」という民主主義的言葉より、「注意」という言葉が多用されておりました。

さて、この意味の「集中」なんて、みんなと同じにしていろ!型にはまれ!じっとしていろ!ただ聞いていろ!なんてことです。個人的な集中なんて話ではない。集団の中の浮いているヤツをなんとか浮かないようにする場合に、それを個人的資質の集中、集中力で恣意的に表現したとしか思えません。ナンセンスですねえ。

まあ、しかし、この授業をおとなしく聞く(聴く、ではない!)というのも一種の集中かも知れません。この状態の集中を、

静的集中

とでも名付けましょうか。で、本来の意味の集中を、

動的集中

とでも名付けましょう。

で、これと、能動的忘却と受動的忘却(私の造語)を組み合わせると。。。あ!なんとなく先が読めてきたでしょうか?これに座禅と、フィットネスの時の自分の筋肉をイメージしてトレーニングしましょ!というのと結びつけると。。。おおお!先の論理の組み立てが見えてきたような。

集中・集中力(3) 

明治維新以降、西欧文明の様々な学問が流入してまいりました。それら学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳するに当たり、翻訳者は悩んで造語をしたり致しました。物理学とか化学とか、まったく過去の日本語にない概念・物質の用語はこれを造語するか、類似の日本語をひっぱてくる他はありませんでした。しかし、ほとんどが造語。「量子」なんて過去の日本語にありませんでしたからね。

ところが、心理学とか哲学、これは中国渡来の類似の用語がたくさんありました。仏教用語もしかり。だから、こりゃあ便利だ!造語しなくて済む!と翻訳者は仏教用語などで、心理学とか哲学などの学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳したんですね。その中で、変な訳語もあります。

無意識

なんでしょうかね?

むいしき【無意識】 (名http://www.geocities.jp/butsuzo1220/buddha/html/bkihon.html・形動)
(1)意識がないこと。気を失っていること。「―状態」
(2)自分のしていることに気づかないこと。意識しないでしてしまうこと。また、そのさま。 「―に手を動かす」「―に他人を傷つける」
(3)〔心〕通常は意識されていない心の領域・過程。夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。潜在意識。深層心理。

ふむふむ。じゃあ、意識とはなんですかね?

いしき【意識】(名)
(1)(ア)物事に気づくこと。また、その心。感知。知覚。
「―を集中する」「人の目を―する」
(イ)(混濁・無意識などに対して)はっきりした自律的な心の働きがあること。自覚。覚醒。見当識。「―を失う」「―が残っている」
(2)状況・問題のありようなどを自らはっきり知っていること。「―が高い」「罪の―」
(3)〔哲・心〕〔(ドイツ) Bewutsein; 英 consciousness〕(ア)思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など、客観的なものに対する。現象学では世界を構成する超越論的自我の働き、また唯物論では存在に拘束される観念一般を意識と呼ぶ。
(イ)単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。また、その作用・内容など。自己自身を対象化する対自的・反省的働き、人格あるいは自我による統一・自律、一定水準の明晰(めいせき)さなどによって規定される。自己意識。
(4)〔仏〕〔梵 mano-vijna〕六識の一。感覚器官による眼・耳・鼻・舌・身の五識に対し、心の働き、精神の働きのこと。第六識。

ふむふむ。(4)の意味にもあるように、元々は仏教用語を持ってきた、ということですね。では、英語で言えば、【意識】=【consciousness】はわかりました。じゃあ、この場合の哲学・心理学で言う意味の無意識は、【無】=【un-】だから、

【無意識】=【unconsciousness】

なのでしょうか?直訳すると。違いますね。日本語の辞典には、

unconsciousness
━━ a. 意識を失った; 無意識の; 知らない ((of)); 知らず知らずの.
━━ n. 【心】(the ~) 無意識

と書いてありますが、【unconsciousness】というと、普通、医学用語になります。要するに、死んだか、植物人間か、【coma】=【昏睡】状態の事を言います。全然、心理学・哲学でいう【無意識】とは意味が違います。辞書で書いてあっても通じません。英語では、この場合の無意識を【unconsciousness】とは言わないようです。むしろ、この意味での用語では、

subconscious
━━ n., a. (the ~) 潜在意識(の), ぼんやり意識している(こと)

だったのではないでしょうか?元々原語では、【subconscious】=【潜在意識】という翻訳をしていたのに、仏教語でしか存在しない、そのまま訳すと【unconsciousness】になる用語もまた、【無意識】=【subconsciousness】としてしまって、あたかも【無意識】というものが西欧社会でも、哲学・心理学分野で認知されているように翻訳してしまったのかもしれません。

ですから、無意識ってのは、昏睡状態として私は扱いますが、どうも、巷(ちまた)では【意識の対極にある物】=【無意識】として取り扱っている節があります。で、無意識が何か人間を操作しているとか、わけのわからない話をしていますが、そんな存在しない物を私は論じる気にもなりません。だって、【無意識】=【意識がない】=【人間として存在していない】のですからね。

あるサイトではこんなことを言っています。

「無意識と武道」
人の心の中には自分では普段意識していない無意識の世界があることをご存知ですか?自分の心は自分で意識でき、自分でコントロールし、自分の行動は自分で決めていると考えるのが普通なのですが、実は人の心の中には自分では意識できない深層の心理(無意識)があり、普段行っている何気ない動作や行動、考え方は、これらの強い影響を受けているのです。「そんなことが、格闘技(武道)に何の関係があるんだ?」と、皆さんはそう思うかもしれませんが、例えば試合中、自分では意識できずに負けを呼び込んでしまうような動きをしているとしたら、どう思いますか?また、試合に限らず、人生におけるピンチの場面で、自分の判断がやはり無意識に支配されていて、適切な判断に誤りが生じてしまうとしたら、大変恐ろしいことだと思いませんか?実は武道をはじめとする東洋の文化は、この無意識を意識が冷静に観察し、どう取り扱っていくのかということがテーマであった、といっても過言ではないのです。

なぁるほど。このあとフロイトなんぞを引用してもっともらしく述べていますが、これは、西欧心理学(それも初期フロイト学派)と仏教用語の混乱した使い方ですねえ。翻訳語に惑わされている典型です。

私は、

【意識】=【(顕在)意識】+【(潜在)意識≒いわゆる無意識】

として扱います。ただし、私が潜在意識と書かず、【無意識】と書いた場合は、今まで誤解され続けてきたありもしない状態の事を言っていると致します。

FI968166_1E.pngさて、

FRANK LLOYD@Age 8のガッコのセンセを思い出して下さい。このセンセの考え方は、左の図にあるように、意識の周り(周りと言うより、2次元の図だとわかりにくいですが、意識の下(識域下)の領域に無意識が潜んでいて、そこによそ見をしたり、よその子に話しかけたり、マンガを読みたいと思ったりする煩悩・妄執が存在していると想像したのでしょうね。これを読んでいる皆さんの中でもこういうように思っている人もおられるかもしれません。しかし、こんな図で表される無意識というものも、煩悩も、妄執もありません。

仏教のサイトの中で以下のような記事を見つけました。


戦争にしろ、テロにしろ、最終的に決断し行動を起こしたのは、精神であって、精神的な世界の認識がゆがんでいるために、その行動自体もゆがんで来るという事です。ここで大事なのは、精神そのものを問題にするのではなく、そこに働く「認識」を問題にすることです。
仏教の方面から見ると、どうも我々の認識している世界は、最初から煩悩に覆われているため、その実在がはっきりと見えていない、としきりに説きます。我々が、眼耳鼻舌身(触)意の六識で認識する世界は、ほとんど夢幻(ゆめまぼろし)の世界であって、本当の実在というものは我々の煩悩を取り去らないと見えてこないと言います。では、本当の実在は何であるかと言えば、空である、とこう言う訳ですね。空に関しては、前回まで色々議論してきたのですが、実際にはもっともっと深い意味が隠されていると見て良いでしょう。

ホントですか?

本当の実在というものは我々の煩悩を取り去らないと見えてこない。
本当の実在は何であるかと言えば、空である、とこう言う訳です。

FI968166_2E.png本当ですか?ここで言っている空というのは、西欧の哲学・心理学伝来前の本来の仏教用語の「無意識」に当たるようですが、それが左図のようになっているってこと?


画像で見られるような、「集中」という何かがあって、それを「集中」することで、「集中」が大きくなり、「集中」したので、意識が集中なるものに飲み込まれる、なんて座禅の修行で考えていることは実際は起きません。

座禅の修行というのは型です。結跏趺坐というのをご存じですか?座禅で修行の際に組まされる座り方です。やられた事はありますか?おられるなら、あれは結構痛いものだというのがわかります。或いは、正座を考えてもいいかと思います。つまり、それらの姿勢を続けるだけで、痛い、という痛覚が生じます。

なんだか知りませんが、「集中」なる抽象概念を通して、無我の境地(つまり意識を狭め無意識を広げる)に至り、「悟り」なるものを会得させるそうですが、その前提条件として、正座なり結跏趺坐なりの姿勢が大事で、その姿勢を保ちながら(正しい姿勢で)無我の境地になり、煩悩・妄執を縮小させ、意識ののぼらせないようにして無意識の片隅においやり、そして悟りを得る。

悟りを得る前に、「シュウチュウ」する前に、痛みに「シュウチュウ」してしまって、「集中」にシュウチュウすることはできないですね。で、意識を縮小させる行為も、痛みが妨げます。悟りに至る姿勢を保つが故に、それが痛みを生じさせてシュウチュウを阻害する要因になる、なんて馬鹿げたことなんですね。

お釈迦様の像をそこここのお寺さんで見ますね?その座り方は結跏趺坐の姿勢のものもあります。しかめ面しく座っています。インドでそんな座り方をしているのがポピュラーと思われますか?

まさかね。インドじゃそんな無理な座り方をするのは修行中(あくまで修行中、覚醒した、悟りを開いた人はしません)のバラモン(ブラフミンのカースト出身の仏教の僧を指す)が修行の一環として(一部として)座っている姿勢であって、いつもいつもあんな座り方ができるものではありません。だいたい、「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」ということで、「吉祥」、「降魔」という呪術的目的を持った座り方ですね。

仏像の基本形

それよりも楽な、「善跏倚坐」「半跏倚坐」「輪王坐」「半跏趺坐」を取っている仏像も数多くあります。辛い姿勢の「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」なんて、意外と少ない物です。インドなんかでは、「輪王坐」=立てヒザが多い。西欧人と同じで正座・結跏趺坐を出来る人は少ないのです。

まあ、シルクロードを伝わっていく内に、マゾが一人いて、それがマゾヒスティックな座り方が正しいとでも思いこんで、間違えて伝承したんでしょう。集中するのに、わざわざ辛い姿勢を取ったら、集中が妨げられるでしょうにねえ。

ですから、数十人のガキが、狭い教室で、背をまっすぐ伸ばして、先生の話を一心不乱に聞く、なんて状態は、ガキにロボトミー手術でも受けさせない限り不可能なんですよ。逆に、背をまっすぐ伸ばした姿勢で、先生の目を見つめている生徒は、心はどこかに行っていることが多い。

私はプレゼンテーションを日本人、中国人、西欧人相手に致しますが、長年やっていると、この背をまっすぐ伸ばしたキチンとした姿勢で、FRANK LLOYDの目を見つめている聴衆の方のほとんどが私の話など聞いていないことに気付きました。

彼らにとって大事なのは、私の話を真摯に聞いている姿勢を取り、私に失礼にならないように、そして、端から見て私の話を真面目に聞いている印象を受ける「姿勢」を保つ事なのです。私の話の内容など関係ないのですね。

むしろ、内容がわかって、「集中」して聞いている人は、他の人間が彼、彼女をどう見ようと関係なく、ウンウン頷いたり、前に乗り出したり、目をつぶり腕を組んで耳を澄ませていたりします。

本当に集中しているのであれば、姿勢なんか関係ないのですね。で、姿勢が関係なくなりますから、鼻水垂らしても関係なく集中してトランペットを吹く奏者のように、顔は弛緩し、口をおっぴろげ、髪の毛をかきむしったりする人間もおります。集中している人間は誰も、結跏趺坐で座っているような、背をまっすぐ伸ばして座っているような、マナーに合った姿勢など保てません。集中しているのですから。外聞は関係ないのです。

集中・集中力(5) 

「集中・集中力(1)」で頂いた別のブログのコメントの整理を続けます。私の、「では、集中する、って何?」という問いかけに対して、みなさんのお答えは、

やはり、B型ですから、一つのことに集中するのが苦手なのはよーくわかりますよ。私なんて、いつも一つのことをやりながら、もう一つのことをやっています。でも、一人の男性とつきあいながら、もう一人の男性とも遊ぶなんてことはないので、とりあえず。(笑)

ある人間がひとつの事だけ(ひとつの事象だけ)を考えるという集中の状態はあまり発生しないのです。自分の頭の中を探れば、わかるはずです。電車の中である本に夢中になっていた、とします。その本の世界にだけ没入していることができるでしょうか?電車の轟々と走る騒音、周囲の乗客の乗降。なにがしか別の事を考えているはず。しかし、意識のほとんどは本を読むという事象で占められているので、降りるのをうっかり忘れたり致しますが、でも、降りるのを忘れるというのを思い出す程度には、他の事象の事も考えているのです。人間は同時に数件、或いは十数件、或いは数十件の事象を考えています。おまけに、その事象がPCのデータのフォルダーのように階層状態になっていて、とてもではありませんがたった一つだけのことなど考えられません。

集中とは、エッチしてイケるときの状況です。(爆)

で、このエッチしてイケる時のある一瞬というのは、意識の中に、その「イク!」という想念しかない稀有な時なのかもしれませんね。

集中力、自分にとって耳の痛い言葉です。多分ですが、私なりに感じている集中力とは、「飽きない」とこだと思われます。直ぐに飽きちゃうんですよ。

飽きる、ということは、その事象が意識の外に出てしまう状態です。集中は、意識の中にある事象を肥大化させる作業ですので、そもそも意識の中になくなってしまった事象に対しては、集中もクソもなくあなります。「飽きる」というのは、「集中」の前段階の意識に留める作業をしなければいけないという事でしょうね。

集中とは、忘れることです。一つのこと以外忘れてしまうことかな?研究に没頭するあまり、第一次世界大戦(だったかな?)のことを知らなかった研究者というのが、いたとかいなかったとかいう話がありませんでしたか?集中とは、ああいうもんです。

で、この忘却です。

座禅というのは、静的集中、日本的集中の概念の典型です。その場合、意識の量を少なくして、考えない境地、つまり無我の境地に至る、ということですから(もしも、そんな事が可能だとしてですが)、とっても静的な物です。その時、忘れ去る(無我)というのは、逆に取っても能動的忘却と言えます。

西欧的な集中は、これと違って、動的集中です。意識の中で、他の事象を押しのけて、ある事象で一杯になるという状態ですので。その時、自然に他の事象は小さくなる、ある事象は(顕在)意識の外、意識に押しやられる。ということで、これは、逆に、受動的忘却といえるのではないでしょうか。

さて、ここまで、七面倒くさいことをダラダラ書いてきましたので、これから、どう集中するか(ある事象で意識を覆い尽くす)、具体的なノウハウと、集中し過ぎは体の毒どころか、ある時には生命の危険もあります、という事を述べたいと思います。

集中・集中力(6) 

集中・集中力というと、何か特別な意識の賜(たまもの)、精神作用の結晶、なぁんて想像する方いませんか?誤解されている方、いませんか?いない?いないならよろしい。いるなら、そういう誤解はしないことです。

人間は万物の霊長だって?何をご冗談を。「霊長」ってえのはですな、「」と「」の複合語ですからね。

れいちょう【霊長】
最もすぐれていて、万物のかしらとなるもの。「人間は万物の―である」

だそうです。。。_| ̄|○

人間が生物の中で最も優れている事などありません。進化は段階的で、単純なものから複雑なものへ、複雑なものが高等生物、なんてことはありません。何が複雑?DNAの数?DNAで言えば、人間のDNAなんて数では中位程度で全然複雑ではありません。

「Chosen One」。。。「選ばれし物」なぁんて言いますが、人間が選ばれた?誰から?造物主?そんなアフォなことはありません。選ばれた物なんて大層な存在ではない。

じゃあ、人間はどう形成されたか?

これは異論がまだ多い説ですが、

ヒト進化の鍵? 顎に関わる突然変異遺伝子をめぐる論争
最も初期の人類がチンパンジーなどと共通の祖先から枝分かれするきっかけとなった遺伝子を発見した可能性があるとの報告に、科学界は騒然となっている。この遺伝子に起きた突然変異により、顎が小さく、弱くなり、その結果、脳が大きくなったというのだ。

顎が小さくなれば頭骨の構造に根本的な変化が起こったはずだと強く主張している。巨大な顎を頭頂にしっかりとつなぎとめる、バンジージャンプに使われるゴムひものような太い筋肉が不必要になるからだ。この変化によって頭蓋骨が大きく発達できるようになり、道具を作り言語を使う能力を持つ、さらに大きな脳の発達につながった可能性がある。

え?何の事かわからないって?

つまりですね、何百万年前に、チンプとかゴリラとかと、人間の共通の祖先であるお猿さんがいたんですよ。で、ある日ある時、そのお猿さんに子供が生まれました。ひ弱でたくましい顎ではなくって、先細り(猿にしてみれば)している顎を持つ子供が。

普通、そういう虚弱児は成長出来ないのですが、何の拍子か、うまく生き延びました。さて、この小猿、顎の筋肉が生まれつき弱い。弱いので、顎から後頭部まで回り込む強靱な筋肉がない。その筋肉がないものだから、頭蓋骨が他のお猿さんに比べて大きくなりました。頭蓋事が大きくなった物だから、その内部の脳みそも頭蓋骨という制約がない、脳みそを圧迫しないので、大きく成長出来ました。こういうことです。

脳みそだけが大きくなってもすぐには頭なんかよくなりません。しかし、この小猿、後の人類の祖先らしく、ハメハメして子供を作ってしまったんですね。顎の大きい雄だか雌だかと。それで生まれたガキは、顎がたくましく大きいヤツもいれば、片親に似て、顎がひ弱く頭でっかちなヤツもいた。

顎が弱いもんだから、生肉なんて食いちぎれませんが、頭が多少回る物だから顎の弱い兄弟姉妹を押しのけて、以降顎の小さな頭でっかちのガキがその一家でのさばりだした。何世代も経つ内に、頭が大きなガキ猿の方が生存率が高くなり、お頭でっかち猿の一族が繁栄しだした・・・(交尾、交尾、交尾)・・・数万年後、この頭でっかちの猿一族、顎をますます使わず、頭を使うものだから、頭はよくなり出して、学習効果も出てきました。チンプ、ゴリラの共通の祖先が住んでいた森から出て、どんどんのさばっていきましたとさ。

てなわけです。

未来人の日本人の顔

こうなっちゃうんですか?将来は?柔らかい物の食べ過ぎですか?絶滅しなければこうなるわけでしょうか?

さて、こんな話が「集中・集中力」に関係するのか?って?関係します!

集中・集中力(7) 

前回で、人間なんざ特別の存在ではない、精神的な霊的なものではない、という事を申し上げました。

さて、こんな話が「集中集中力」に関係するのか?って?関係します!

と末尾で書きました。

人間は動物の延長です。延長であるからこそ、精神的な集中なんて関係なく、動物的な集中ってのが、まずは最初にありきの集中ではなかったか?というのが言いたいポイントです。

猫、犬を飼われたことがある方多いと思います。

猫、犬が何か注意を喚起される時、どうしていますか?きっと、目を大きく見開いて、耳をそばたせて、顔がその注意の中心を探すため、そこらを見回しますね?それが、猫・犬の集中です。

中には、集中と言うと眉根に皺を寄せて難しい顔をするのが集中だとばかり思われている人がいます。でも、その姿勢の集中もありますが、犬・猫スタイルの集中もあるんです。

FRANK LLOYD@Age 8の時のガッコのセンセが期待していたのは、

眉根に皺を寄せて難しい顔をする

という集中だったんでしょうね。で、座禅かなにかのごとく瞑想状態に入る。。。そんな集中では算数が判らないではありませんか?授業の進行はスムーズに行っても。

集中を精神的に述べたものは、書籍・サイトでよく見かけますが、集中なんて、まずカッコから入ればいいとFRANK LLOYDは思ってます。

FRANK LLOYD的集中とは、猫・犬的姿勢。

目を大きく見開いて、耳をそばたせて、顔がその注意の中心を探すため、そこらを見回す

これです。頭の後ろ、耳に近い筋肉を緊張させて、耳を動かそうという姿勢ですね。で、猫・犬的集中ですから、授業の進行、正しい姿勢なんか関係ありません。キョロキョロ見回し、何が自分の注意を喚起させるんだ?とするのがFRANK LLOYD的集中であります。

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