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スリランカのお墓の話 

FI84513_0E.jpgお墓の話。え?縁起が悪い話するなって?ちょっと聞いて下さい。いつかは、たどる道なんですから。

私の妻は、4人姉妹の末っ子です。妻は、スリランカ人です、一応。一応が付くのは、シンハラ語は下手、シンハラ語をうまく書けない、読めない。英語しかできません。おまえは何人なんだと。

FI84513_1E.jpgスリランカで、シンハラ人という紀元前3世紀、アショカ王の時代にインドから渡ってきた人種と、イギリス統治前にインド南部から自発的に渡ってきたインド南部のタミール人(スリランカタミールと呼んでます)と、そしてタミールゲリラでおなじみの、イギリスが紅茶農園で働かせる奴隷として連れてきたインディアンタミール、そして、紀元前からインド洋を航海して、スリランカに住み着いたモスリムのだいたい3人種から構成されてます。

宗教は、シンハラ人の小乗仏教と、スリランカタミール人のヒンドゥー教、下層のカーストがよく改宗する(カーストがなくなるため便利だそうです)キリスト教、そして、イスラム教の混淆です。仏教-シンハラが多数派です。

FI84513_2E.jpg妻の旧姓は、ポルトガル名です。ポルトガルの要塞のあった都市が義父の出身ですので、1/16384(14代前くらい?)ぐらいはポルトガルの血が交ざってるんじゃないか、アハハ、と本人はいってます。妻は、仏教信者ですが、私と同等いい加減な者です。仏教は、お寺参りに行け!とは強制しませんので、都合が良いと云えば都合が良い。

FI84513_3E.jpg一番上の姉は、夜逃げ・駆け落ちして、モスリムと結婚してしまいました。商売はスリランカのスペシャルタスクフォース。2番目の姉は、シンハラでエアランカという航空会社のカソリックのパイロットと結婚。結婚十数年で彼が女を作って離婚。その後、彼女がアフリカで仕事をしていた時に知り合ったプロテスタントのイギリス人と再婚。商売は環境関連を研究している大学教授。3番目の姉は、仏教徒のシンハラと結婚。商売は、建築のコンサルタント。そして、4番目は、私の妻。私の商売は、建築設備のコンサルタント。まあ、スリランカらしい構成になってます。その他にフランス人がいたりカナダ人がいたり、ありとあらゆる国の親戚がおります。やれやれ。

FI84513_4E.jpgさて、こういう構成ですので(あ~、導入部からして長い!)、冠婚葬祭が大変、というわけでもないんですねぇ。特に、葬式は簡単。

まず、イスラムは、死んだその日に埋めなければいけません。土葬です。火葬をするということは、地獄に行く、ということだそうで、タブーです。土饅頭を作って終わり。お参りなんかありません。

小乗仏教は、死んだら、霊魂は体から離れて、輪廻転生しますから、体には何の意味もない、というわけで、火葬。適当に土饅頭作って、灰を入れてお終い。或いはどこかに灰を撒いてしまいます。墓碑も何もありません。キリスト教は、土葬。イスラムと同じ考え方ですね。

さて、困ったのが私です。日本のお寺には、私の13代目でお終いにします。永代供養の金を払いますので、ヨロシクお願い致します、と寺に相談に行きましたら、儂もスリランカに行く!と寺の坊主がいい出して、ま、ま、檀家もあるし、何を突飛な、と寺の家族一同止めました。私の日本の妹も渋々納得してくれましたので、日本はOK。

でも、スリランカで、土饅頭はやだなぁ、と。日本人墓地も有るのですが、それもイヤだと。ということで、墓を自分で設計して、作ることにいたしました。別にスリランカ政府はいい加減ですので、日本政府のように、所定の場所に埋葬しなければいけない、などともいいません。

私の母など、死んでまで先祖代々の墓の中で義父と義母(私の祖父母)と一緒にいたくない、インド洋に灰を流すように、と私に指示してます。やれやれ、遺骨を日本から私は運ぶのか。

で、この前設計したのが、前方後円墳型で、長さ15mの墓にしようと。お釈迦様が悟りを開いた、という菩提樹(?)をインドから持ってきたのがアヌラダプラという所にあります。その葉っぱを盗んで(スミマセン、でも葉っぱです)、遺伝子操作で栽培して(姪っ子が生物工学ですから便利)、それを前方後円墳の上に植えてやれと。場所は、テンゴールというスリランカの最南端で、その向こうは南極まで何もナシ、というところ。ノラ象やノラ孔雀、ノラゴールデンモンキーもいる素敵なところです。

と、このプランを得々として妻・娘に話したのですが、「ばっかじゃない?!」と云われました。妻に一緒に入ろう、と云っても、何で特別の墓なんかいるの?と云われてお終い。真剣なのになぁ。生きているウチから、手間書けないように考えているのに。

さて、みなさんは、どういう葬式を永住の地で考えていますか?(なんて、こんな話誰も読むわけないか。。。(-_-;))

註)写真の美人は私の妻ではありません。コケティッシュなところだけ似てますが。彼女はインドの有名な女優でAishwarya Raiといいます。1994年のミス・ワールドです。そりゃあ、ミス・ワールドだからね。

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三島物語 

世界には不思議な相似を持った3つの島があると思ってます。誰も言い出さないので私が言ってみようかなと。

世界で地政学的に相似な3つの島国。

map-3islands.jpg日本

 日本民族がどこからきたか、未だにわかりません。言語的には、ツングースやモンゴル、朝鮮、ハンガリーなどと同系統の少数派の言語です。たぶん、北からは、中国東北部の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南のロシア極東地域および朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族の女真族が移り住んだのかもしれません。或いは、中国の江南地方から移り住んだ中国人(但し、当時の言語は古代タイ語系)もいたでしょう。ポリネシアンも移ってきたかもしれません。しかし、その中で多数を占める移住人口が朝鮮半島から移り住んだのは確かなことでしょう。その人間が、現在の朝鮮南西部の百済の人間だったかもしれず、高句麗の人間だったかもしれず。日本人の血液の中には、かなりの朝鮮半島民族の血が流れていると思います。

 日本は古代中国帝国から朝鮮半島民族を通じて文化を仕入れました。古来独自の文化がありましたが、中国文化と混淆して、独特な文化を形成しました。仲介した朝鮮半島民族は、我々が仲介したり、移民をしたりして日本という国家・文化が形成できたと言っております。そして、戦前の一時期、仲介した(島国よりも優れた)民族を植民地化したと憎悪しています。中国帝国は、大陸帝国の末裔。日本は古代では辺境の地。しかし、朝鮮半島は、その武力の政治の文化の及ぶ地域でした。この半島を巡って、白村江に始まる幾多の戦争を経験してきました。

 近代になって、中国帝国(当時の清朝)が衰退し、日本は文化の中継地の朝鮮半島を植民地化し、中国帝国の一部を切り取ろうと目論みました。

英国

 英国を構成する諸島には古来からケルト民族が住んでいました。ローマ帝国の昔、シーザーが合従連衡した現在のフランス、スペインに居住していた民族と同じ民族です。ライン川以西にはケルト民族よりも蛮族(狩猟、非定住という意味で)であったゲルマン民族が住んでいました。ローマ帝国の伸張に伴い、ケルト民族は徐々にラテン民族(イタリア人などの地中海民族)と混血したり、大陸から追いやられたりしました。現在ケルトの血を濃厚に残す英国の地域は、アイルランドとスコットランド、ウェールズの一部になります。イングランドは、ローマとの混血をはじめとして、ノルマン人の侵略があったり、ローマ化したフランスのフランク族の王族が支配したり、逆に、フランク族の英国国王がフランスの一部を植民地化したりしました。近世になると、王族はゲルマン人から迎えたりしています。

 アイルランド人は、古来からの歴史や、ローマの文化をいち早く取り入れた先進性などでプライドを持っていますが、近代の一時期、イングランド人の侵略で植民地化されました。それが継起となって、大量にアメリカなどに移住を致しました。未だに、アイルランド人は、古代からの血脈の誇りを持っていて、混淆したイングランド人に対するプライドは高い物があります。

 大陸側のローマ帝国の末裔のラテン民族は、先進地域としてのプライドを持っています。島国で、海賊行為で有名であったイギリスが、一時世界の海を制覇したのに良い感情は持っていませんでした。それで、ナポレオン戦争などで、イギリスと大陸諸国は数々の戦争を行いました。

map-india.jpgスリランカ

 スリランカのシンハラ王朝は、紀元前500年くらい前に現在のパキスタン南部やインドのグジャラート州などから海づたいにボンベイ、ゴア、コーチンなどに徐々に南下して、スリランカに行き着いたのだと言われています。元々は、北インド/パキスタンの民族だったのです。しかし、現在では定かにわかりません。その当時のスリランカ島には、先住民族のドラビタ人(ポリネシア系と言われています)や南インドのタミール人が住んでいたと思われます。タミールネットなどでは、シンハラ族のスリランカ移住は2500年前だが、タミール人は5000年前からスリランカに住んでいた先住者であると言っています。

 古代のインドの文明を作ったのは、アーリア系の北インドの種族ではなく、南インドのドラビタ系の種族だと言われています。パキスタンのハラッパーをはじめとする古代文明はドラビタ系の文明であると。それが北部からアーリア系の人種が侵略を始め、徐々に南部に押し込められたようです。現在のタミール人はタミールナドナ州に多く住んでいますが、「タミールナドナ」の「ナドナ」とは国家という意味があります。ですから、おかしいことに、「タミールナドナ州」とは「タミール国州」という意味なのです。インド共和国の中で、あまり中央政府に重きを置いていない意識がかいま見えます。

 古代から古くスリランカに定住していたタミール人は、スリランカでは「スリランカン・タミール」と呼ばれています。それに対して、19世紀に南インドを植民地化した英国がタミール州からスリランカに紅茶栽培のための労働奴隷として連れてきた100万人のタミール人を「インディアン・タミール」と呼びます。

 おしなべて、「スリランカン・タミール」は裕福であり、スリランカ政府にも大臣を出していて、LTTEの闘争にはあまり組していません。LTTEの闘争に賛同しているのは、あまり裕福ではない「インディアン・タミール」の方です。

 LTTEの幹部の一人はフランス人と結婚しており、その縁でフランスにかなり強固な地盤を置いていました。フランス政府も以前まではLTTEを少数民族の政治団体として認知しており、フランス内での政治活動や基金の収集も許可しておりました。そこでLTTEは、海外に居住する裕福なタミール人から、ある人間からは自発的に、ある人間からは脅迫をもって、募金を集め、それを闘争資金としておりました。この募金収集で、暗殺されたヨーロッパ居住のタミール人も多数おります。タミール州のタミール人が韓国人のようなものなら、LTTEは北朝鮮のようなものと言えるかもしれません。

 インド政府がスリランカを支援するのは、スリランカのタミール問題が飛び火して、インドのタミール州が分離独立を言い出すのを阻止するためです。パキスタン政府がスリランカを支援するのは、LTTE支配地域に居住するイスラム系スリランカ人をLTTEが迫害しているためです。

う~ん、以上、うろ覚えで書きまして資料を見ていません。間違いが散見すると思いますが、後で書き直します。間違いはご指摘下さい。

サンフランシスコ講和会議とジャヤワルダナ 

1951年9月6日アメリカ合衆国サンフランシスコに於ける対日平和条約の締結と調印のための会議

※このエントリーの引用では「JAYAWARDENA」を「ジャワルデネ」をそのまま使用致しました。私のコメントでは、「ジャヤワルダナ」と致しました。

・・・私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代表ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。

即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを述べて置いてもよいと思うのです。ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。・・・


by セイロン政府代表団々長J.R.ジャワルデネの演説

1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和会議において、ソ連代表はドイツと同様、日本の分割統治を提唱しておりました。アメリカはその案に反対しておりました。イギリスは、日本の戦争被害に遭い、その当時ほとんどが独立していなかったアジア各国の意見を聞くという案を提唱しました。そこで、サンフランシスコには日本の戦争被害にあった未だ独立していなかったアジアの国々の代表も集まったのです。

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スリランカの王の名前と王都、在位 

0225anuradhapura.jpgスリランカの王の名前と王都、在位


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ポルトガル植民地時代 (1505~1658 153年間) 

0880katara.jpgスリランカがヨーロッパの植民地であったのは16世紀から20世紀まで、1505年から1948年までの443年間にのぼります。紀元前のシンハラ族の植民から伝承では紀元前5世紀です。2500年間の建国の内、ほぼ5分の1が植民地の歴史でした。

1505~1658 153年間 : ポルトガル植民地時代
1658~1796 138年間 : オランダ植民地時代
1796~1948 152年間 : イギリス植民地時代

その内、ポルトガル植民地時代は、建国してから6%、植民地時代の34.5%の153年間です。ポルトガル植民地時代は、ポルトガル/スペイン人特有の現地人との混淆も進んだ時代です。

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オランダ植民地時代 (1658~1796 138年間) 

0905katara.jpgスリランカがヨーロッパの植民地であったのは16世紀から20世紀まで、1505年から1948年までの443年間にのぼります。紀元前のシンハラ族の植民から伝承では紀元前5世紀です。2500年間の建国の内、ほぼ5分の1が植民地の歴史でした。

1505~1658 153年間 : ポルトガル植民地時代
1658~1796 138年間 : オランダ植民地時代
1796~1948 152年間 : イギリス植民地時代

その内、オランダ植民地時代は、建国してから5.5%、植民地時代の31.2%の138年間です。

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イギリス植民地時代 (1796~1948 152年間) 

0753kottawa.jpgスリランカがヨーロッパの植民地であったのは16世紀から20世紀まで、1505年から1948年までの443年間にのぼります。紀元前のシンハラ族の植民から伝承では紀元前5世紀です。2500年間の建国の内、ほぼ5分の1が植民地の歴史でした。

1505~1658 153年間 : ポルトガル植民地時代
1658~1796 138年間 : オランダ植民地時代
1796~1948 152年間 : イギリス植民地時代

その内、イギリス植民地時代は、建国してから6%、植民地時代の34.3%の152年間です。

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Ceylon, Polonnaruwa 

0391polonnaruwa.jpgスリランカの歴史- 483BC~1948年(独立前)
ポロンナルワは、シンハラ王朝がインドから移ってきて最初に首都としたアヌラーダプラに次ぐ、スリランカの2番目に古い首都です。

アヌラダプラは、シンハラ人の王、ドゥッタガーマニー(Dutugemunu)がタミール人を追い出して、AD161年に首都と定めました。その後、10世紀末に南インドのチョーラ王朝が、アヌラーダプラを征服。やむなくシンハラ王朝はアヌラーダプラを捨て、ここポロンナルワに都を移しました。これが西暦1017年です。鎌倉幕府が1192ですので、平安時代の末期頃ですね。ポロンナルワは、10~12世紀に最も栄え、14世紀以降は廃墟となりました。今でも人なんか住んでません。これがいいのかも。1900年以降になって遺跡の発掘がやっと開始されました。


0393polonnaruwa.jpgポロンナルワは、コロンボから216キロメートル北東に位置し、世界遺産に登録されています。しかし、世界遺産に登録されてもポロンナルワ饅頭を売っているわけではありません。ポロンナルワ煎餅なんてのもないです。密林の中に、古代の都がひっそりとたたずんでいます。この都市は人工の灌漑湖の堤に接しています。その灌漑湖は「パラークラマサムードゥラヤ」といい、コロンボ港よりも大きく、スリランカで最大の貯水池です。10世紀に作られた灌漑湖ですが、今でも使われています。

◆11世紀:ウィジャヤバーフ1世(Vijayabahu Ⅰ)
 灌漑施設を整え仏教の普及に努める
◆12世紀:パラークラマ・バーフ1世(Parakrama BahuⅠ)
ウィジャヤバーフ1世の孫にあたる有名なパラークラマ・サムドゥラという灌漑貯水池を造る
◆1187~1196年:ニッサンカ・マーラ王(Nissanka Malla)
 南インドのカリンガ王朝出身、多くの石碑有り。
 この後、またもや南インドのチョーラ王朝の侵略を受けて都は衰退する。


0398polonnaruwa.jpg遺蹟は、

1.王宮
2.王の会議室(ニッサンカラター・マンダパヤ)
3.聖骨部屋(ハタダーゲ)
4.仏舎利塔(キリヴェヘラ、ワタダーゲ、パブルヴェヘラ、ランコットヴェヘラ)
5.ヒンドウー教寺院(シヴァデーワーラ)
6.池(ネルムポクナ、クマーラポクナ)
7.イメージハウス(ティヴァンカピリマゲ、ランカティラカ、トゥパラーマ)
8.寺(ポツグルヴィハーラ)
9.バラークラマバーフ王像

芸術的な彫刻を施したパルラヴァ朝(南インド)の伝統的建築様式の影響から多くが構成されています。同時に、基本的に仏教様式のものもあります。アヌラーダプラとは異なり、これらの遺蹟すべてが小さな場所に集中しています。アヌラーダブラと比較すると、建造物により多くの煉瓦が使われています。ティヴァンカピリマゲには何点かの絵画が残され、また、煉瓦で創られた巨大な
仏陀像があります。ガルヴィハーラは岩を切り開いた複合体の仏像で、ポロンナルワでは非常に変わった形をしています。ここは他の記念碑から2、3キロメートル離れています。


0411polonnaruwa.jpgスリランカ大使館ホームページ-歴史
首都がポロンナルワに移転されたのは、主に戦略的な理由があります。1017年から 1215年までのポロンナルワ時代に、多くの美しい建築様式で都市を引き立たせた3人の王達により優れた発展が成し遂げられた。ロイヤルパレス、観客ホール、仏教寺院、仏舎利塔、ヒンドゥー教寺院、池等が建てられました。


ポロンナルワの王達は、南インドの王朝でどのように内政が影響しているかを認識し、南インドの王女と結婚することで戦略的な同盟を築いた。このように、ポロンナルワの芸術と建築は、アヌラーダプラに比べると、南インドの芸術と建築に多大なる影響を及ぼした。ポロンナルワも世界遺産の一つである。


0415polonnaruwa.jpg
しかし、この同盟や首都の移転は侵略を終わらせることはなく、益々増えていった。首都と定住は、南方の湿地帯へと徐々に移動していく。首都はそれから6世紀の間、湿地帯のダンバデニヤ、ヤーパフワ、スリジャヤワルダナプラコーッテ、キャンディ(世界遺産)へと移転された。

度重なる湿地地帯への首都の移転と共に、乾燥地帯で農業を支えていた灌漑設備は、徐々に衰えていった。経済を独占していた農業は、ヨーロッパや中東におけるスパイス、宝石、異国情緒のある動植物の増加する需要と共に、貿易中心の経済へと少しずつ変化していった。

この島に最初に訪れたヨーロッパ人はポルトガル人であり、16世紀、東部以外の湾岸平地の大部分を支配下に置いた。彼らはキリスト教も伝道した。ポルトガル文化の影響は未だにこの島には残されている。良い例では、バイラという歌で、地元文化に溶け込んでいる言語や食べ物等の一部として、残されている。

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